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日本初の国際女優・谷洋子の愛と勇気の人生(上)

戦後、単身パリへ渡り、「赤いバラ」と呼ばれた知られざる女優の美しい生き方

丸山あかね ライター

国際女優・谷洋子さん

 終戦から5年、1950年に22歳で単身パリへ渡った日本人女性がいる。谷洋子(1928~1999)。曲折をへて女優となった彼女は、世界12か国の映画に出演、日本初の国際女優として名をなした。そのベールに包まれた生き様を綴ったノンフィクションを上梓したばかりの遠藤突無也さんに、その大胆にして華麗な人生について「上」「下」2回で語ってもらった。

「築地明石町」のモデルは谷洋子の祖母!

「築地明石町」
 令和がはじまって間がない6月24日、東京国立近代美術館が44年間にわたり所在不明になっていた日本画家・鏑木清方の代表作「築地明石町」を収蔵したと発表し、新聞各紙で大きく報じられた。美人画三部作として制作された「新富町」「浜町」とともに同美術館が計5億4000万円で購入し、11月から一般公開することも決まっている。これは必見だと意気込んでいる人も多いことだろう。

 そんななか、「本当に驚きました。まさかこのタイミングであの絵が見つかるなんて……」と語る人がいる。8月初旬に出版された『パリの「赤いバラ」といわれた女』(さくら舎)の著者、遠藤突無也さんだ。

 ノンフィクションである本書の主人公は、1950年に単身パリへ渡り、日本初の国際女優として活躍した谷洋子(1928~1999)。なんと洋子は「築地明石町」のモデルとなった明治美人、江木万世(1886~1943)の孫なのだという。この奇跡的な流れに、遠藤さんは「洋子さんが広報活動をしてくれたのかなと本気で思ってしまいます」と興奮を帯びた口調で話すのも無理はない。

『パリの「赤いバラ」といわれた女』
 万世の娘である妙子(1908~1942)は大正時代のモダンスポット「江木写真館」の娘として生まれ、婦人運動家として有名な奥むめをの秘書を務めた才媛だ。母譲りの美貌の持ち主でもあり、中勘助の『菩提樹の蔭』に収められている随筆「妙子への手紙」の妙子その人として、文学界では広く知られている。

 妙子は経済学者であり、後に日野自動車の会長となった猪谷善一と結婚。猪谷が一橋大学の助教授時代にパリで生まれたのが谷洋子(本名・猪谷洋子)だ。

 洋子は3歳で両親とともに帰国するが、戦争を挟み、美学の勉強を目的に22歳でパリへ留学。その後、紆余(うよ)曲折を経て女優となり、世界12か国の映画に出演し、海外で人気を博した。

 谷洋子のベールに包まれた生き様を2回に分けて紹介したい。前編ではまず、遠藤さんに本書を書き上げるまでの経緯について語ってもらった。なぜ谷洋子に着目したのか? 膨大な取材を通じて明らかになった谷洋子の真実とは?

怖いもの見たさでパンドラの箱を開けた

遠藤突無也さん 歌手・日仏映画研究家
東京都に生まれる。。1992年よりパリでの歌手活動を開始。96年、世界的な作曲家アンジェロ・バダラメンティに見いだされ、同氏のプロデュースにより「Ruby Dragonflies」をリリース。07年、アルバム「Un Japonais à Paris パリの日本人」を発表。同年、殿堂《オランピア劇場》でのコンサートで成功を収め、仏メディアの注目を集めた。著書に『日仏映画往来』(松本工房)、『日本映画黄金期』(フランスCarlotta films)など。

遠藤突無也さん
 僕が2017年に出版した『日仏映画往来』は、フランス映画で活躍した日本人と日本で
人気を博したフランス人を探って書いたものでした。その準備として改めてフランス映画を調べていた時に、谷洋子ってこんなに海外の作品に出演し、しかも人気があったんだなと思いまして。もちろん以前から存在は知っていたのですが、ふと気づいたわけです。

 そこから 興味を抱き始めてプロフィールを見てみたら、1950年に単身で渡仏していたことがわかりました。のちに洋子が津田塾大学を卒業後、カソリック教会の留学生に選ばれてソルボンヌ大学へ進学したことを知るのですが、いずれにしても先進的だなと。さらに、いかにして国際女優へと転身を遂げたのか……と想像を巡らせたら、ちょっと怖くなってしまったんです。

 だって時代的な背景を考えても若い日本人女性がフランスの芸能界に入り、大きな役をつかむなんて並大抵のことではありませんから。それで彼女のことをもっと知りたいと、つまり怖いもの見たさでパンドラの箱を開けてしまったというわけです。

日本とフランスで3年かけて取材

仏伊映画「バレン」のポスター 1961年公開。ニコラス・レイ監督。谷洋子の代表作
 最初は何から手をつけていいのかわからず、日本で未公開の出演作品を観ることから始めました。1999年に他界した洋子が今も生きていたら91歳になるので、彼女のことを知っているという人の話を聞くのは難しいかなと思っていたのですが……。

 ほどなくして洋子の祖母・万世が、当時はまだ行方知れずで幻の名画といわれていた『築地明石町』のモデルであることがわかり、万世の夫が「江木写真館」の跡取り息子であることを知ったことから、取材が動き始めたのです。というのも、僕の妻の知人である着物スタイリストの第一人者・江木良彦さんが、「江木写真館」の一族だということを思い出したものですから。そこでさっそく江木さんに確認してみたところ、やはり洋子の親戚でした。

 江木さんが洋子の従妹にあたる方を紹介してくださり、伺った話の中に出てくる人を尋ね、写真や手紙などの資料を譲っていただくといった具合に取材を進めていきました。同時にパリで洋子を知る人を探し始め、コンタクトをとってくれる協力者に恵まれたこともあって、少しずつ謎に満ちた洋子の人生の点と点が線となって繋がっていったという感じです。

 日本とフランスを股にかけた取材は3年に及び、20人以上の方の話を伺うことができました。年配者も多く、洋子を知る最後の機会だったといえるでしょう。今にして思えば、何かに急き立てられるように取材したのが不思議ですね。

墓地で大きな虹に迎えられ

 結局のところ、僕と洋子をつないでいたのは、パリという街でした。パリで歌手活動をしていた僕にとって行きやすい場所だったし、自分でフランス人にインタビューすることもできたので。なんだか偶然の流れというには出来過ぎているなという想いは、今もずっとあります。

シャンパンを開けたら、窓の外に大きな虹が……=ブルターニュ地方の港町ビニックにて
 実はパリで暮らしていた頃に、僕は日本料理店で晩年の洋子に遭遇しているようなんです。その時にはピンと来なかったのですが、取材をする中で、そういえば店主が「今のは女優の谷洋子だよ」と教えてくれたことがあったなと思い出し、すれ違っただけだとはいえ人生の中で交差していたのかと、微かな縁を感じたりもしました。

 あれは取材のためにフランスへ出向き、洋子の眠るブルターニュの墓地を訪れた時のこと。激しい雨が降り出したので勘弁して欲しいなと思っていたんですよ。ところがその後、案内をしてくれた郷土史家の家で「いい取材ができました!」って言いながらシャンパンを開けたら、窓の外にバーッと大きな虹が出たんです。びっくりして、みんなで「まるで洋子さんが『ようこそ!』と歓待してくれているようだね」と話したのを覚えてます。

 ちょっと気持ち悪いことを言うようですが、僕は洋子が応援してくれたというより、洋子に「私のことを書いて!」と託されたような気がしているんです。本を読んでいただけばわかりますが、彼女はセルフプロデュースの達人ですから、そのくらいのことはするだろうなと。

マルセル・カルネ監督に見いだされて

 僕が一番関心を持ったのは、やはり洋子がいかにして女優になったのかという点でした。

 ソルボンヌ大学で哲学科に入り美学を学んでいた洋子は、

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