アラン・ドロンともただならぬ仲に。自分なりの哲学を持って生き抜いたパリの赤いバラ
2019年08月18日
終戦から5年、1950年に22歳で単身パリへ渡った日本人女性がいる。谷洋子(1928~1999)。曲折をへて女優となった彼女は、世界12か国の映画に出演、日本初の国際女優として名をなした。そのベールに包まれた生き様を綴ったノンフィクションを上梓したばかりの遠藤突無也さんに、その大胆にして華麗な人生について「上」「下」2回で語ってもらった。
8月初旬に発売された『パリの「赤いバラ」といわれた女』(さくら舎)は、日本初の国際女優として大スターとなった谷洋子の生涯を紐解いたノンフィクション。「日本初の国際女優・谷洋子の愛と勇気の人生(上)」では著者である遠藤突無也さんに取材を通して明らかになった洋子の女優としての活躍ぶりについてうかがった。後編では、一人の女としての洋子の生き様を中心に語っていただいた。
遠藤突無也さん 歌手・日仏映画研究家
東京都に生まれる。1992年よりパリでの歌手活動を開始。96年、世界的な作曲家アンジェロ・バダラメンティに見いだされ、同氏のプロデュースにより「Ruby Dragonflies」をリリース。07年、アルバム「Un Japonais a Paris パリの日本人」を発表。同年、殿堂《オランピア劇場》でのコンサートで成功を収め、仏メディアの注目を集めた。著書に『日仏映画往来』(松本工房)、『日本映画黄金期』(フランスCarlotta films)など。
先に触れたマルセル・カルネにはじまり、アラン・ドロン、セルジュ・ゲンズブール、ジャン・コクトー、ガブリエル・コレット、イヴ・モンタン、ヘンリー・ミラー、モーリス・シュヴァリエ、ジルベール・ベコー、アンリ・サルバドール、黒澤明、藤田嗣治、フェルナン・レジェ、モーリス・ド・ヴラマンク、サルバドール・ダリ、マリー・ローランサン……、果てはビン・ラディンまで。
『パリの「赤いバラ」といわれた女』ではこうした人達と洋子をめぐるエピソードを随所に鏤めました。「へぇー」と驚くのと共に、洋子がいかにフランスに溶け込み、フランス人に慕われていたかという理解を深めていただけることでしょう。
洋子は1955年、カンヌ映画祭の折に出会ったフランスの二枚目俳優ロラン・ルザッフルと出会い、恋に落ち、56年に結婚しました。ところが、ロランは生い立ちや戦争のトラウマを抱えていたことから、次第に精神的なバランスを崩していきます。
このあたりの人間関係は込み入っていて、夫婦はロランが父親のように慕っていたマルセル・カルネと家族のような共同生活をしていた時期もありました。とはいえ現在、洋子以外の二人はモンマルトルの墓地で共に眠っています。ホモセクシャルには寛容なフランスでも、男同士が一つの墓に入るというのは極めてまれなことで、二人の絆がいかに強かったかを物語っているかのようです。
結局のところ、ロランは第二のジェラール・フィリップと期待されながらも落ちぶれてしまうのですが、そこへ登場して大スターになったのがアラン・ドロンでした。洋子とロランは彼のことを弟のように可愛がっていました。それだけにロランの中には忸怩(じくじ)たる想(おも)いがあったようです。さらに洋子とアラン・ドロンのただならぬ関係が明らかになり……。
こうしたさまざまな愛情問題に対して洋子がどう捉えていたのかを探ることで、彼女の性分や人生哲学について、確信を持って書き進めることができました。
洋子のファンだったというロジェの父親は、液だれしないビックボールペンで知られる発明家。ロジェも後にBICの共同経営者の一人となる。つまりロジェを伴侶に選んだ時点で、洋子にはリッチなマダムとしての人生が約束されていたのです。
ロジェは父親譲りの真面目で寡黙な男で、残されている数多くの逸話からも人間性の高い人物であったことを窺(うかが)い知ることができます。ロジェとの仲睦(むつ)まじい暮らしぶりを知っている人の話からは、洋子が真実の愛にめぐり合い、一人の女性としての大きな幸せをつかんだことが伝わってくる。洋子の人生の中でもっとも満ち足りていた季節だったといえそうです。
驚いたのは、洋子がかつての夫ロランに経済的な援助をしていたことでした。ロランはおそらく金欲しさに出した本の中で、洋子との情熱的な恋にも触れ、眉唾(まゆつば)だとしか思えないような性にまつわる赤裸々なエピソードも暴露していますが、このことも彼女は容認していました。
洋子は周囲の人に「別れた夫のみじめな姿を見るのは嫌だから」と言っていたのですが、このことから慈悲深い女性であったことがわかります。この一件に限らず、取材をしながら潔いな、気っ風はがいいなと幾度思ったかしれません。
ロジェが亡くなった後の洋子は本当に寂しそうだったといいます。占いに凝り、孤独から逃れるために買い物や酒で憂さを晴らします。「ll n’y a plus d’aprè s あとには何もない」というサン=ジェルマン=デ=プレの様変わりを描いたシャンソンがありますが、洋子もそんな心境だったのでないでしょうか。
ロジェと暮らしていた頃は毎夜のようにゲストを招き、洋子の徹底したホステスぶりには目を見張るものがあったという証言がありました。綺麗に着飾り、華やかな笑顔で客を迎え、もてなしていたと。
洋子はロジェの死後から数年後の1999年に、肺がんのため他界しました。がんだと告知を受けてから800万円もかけて歯を治療しているのですが、「ロジェに再会する時に綺麗(きれい)でいたい」と語っていたといいます。洋子を知る人達は口をそろえて「洋子は男が放っておけないほど可愛い女だった」と言いましたが、それを象徴するようなエピソードだといえるでしょう。
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