丸山あかね(まるやま・あかね) ライター
1963年、東京生まれ。玉川学園女子短期大学卒業。離婚を機にフリーライターとなる。男性誌、女性誌を問わず、人物インタビュー、ルポ、映画評、書評、エッセイ、本の構成など幅広い分野で執筆している。著書に『江原啓之への質問状』(徳間書店・共著)、『耳と文章力』(講談社)など
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
アラン・ドロンともただならぬ仲に。自分なりの哲学を持って生き抜いたパリの赤いバラ
洋子は1955年、カンヌ映画祭の折に出会ったフランスの二枚目俳優ロラン・ルザッフルと出会い、恋に落ち、56年に結婚しました。ところが、ロランは生い立ちや戦争のトラウマを抱えていたことから、次第に精神的なバランスを崩していきます。
このあたりの人間関係は込み入っていて、夫婦はロランが父親のように慕っていたマルセル・カルネと家族のような共同生活をしていた時期もありました。とはいえ現在、洋子以外の二人はモンマルトルの墓地で共に眠っています。ホモセクシャルには寛容なフランスでも、男同士が一つの墓に入るというのは極めてまれなことで、二人の絆がいかに強かったかを物語っているかのようです。
結局のところ、ロランは第二のジェラール・フィリップと期待されながらも落ちぶれてしまうのですが、そこへ登場して大スターになったのがアラン・ドロンでした。洋子とロランは彼のことを弟のように可愛がっていました。それだけにロランの中には忸怩(じくじ)たる想(おも)いがあったようです。さらに洋子とアラン・ドロンのただならぬ関係が明らかになり……。
こうしたさまざまな愛情問題に対して洋子がどう捉えていたのかを探ることで、彼女の性分や人生哲学について、確信を持って書き進めることができました。
離婚騒動の最中も精力的に女優業をこなしていた洋子でしたが、62年にロランと離婚した後、40歳を境に引退し、実質的な夫となったロジェ・ラフォレと、パリやブルターニュの港町ビニックやパンポールで穏やかな暮らしを送っています。
洋子のファンだったというロジェの父親は、液だれしないビックボールペンで知られる発明家。ロジェも後にBICの共同経営者の一人となる。つまりロジェを伴侶に選んだ時点で、洋子にはリッチなマダムとしての人生が約束されていたのです。
ロジェは父親譲りの真面目で寡黙な男で、残されている数多くの逸話からも人間性の高い人物であったことを窺(うかが)い知ることができます。ロジェとの仲睦(むつ)まじい暮らしぶりを知っている人の話からは、洋子が真実の愛にめぐり合い、一人の女性としての大きな幸せをつかんだことが伝わってくる。洋子の人生の中でもっとも満ち足りていた季節だったといえそうです。