2019年08月15日
福島の旧避難区域で新規書店が開業した。南相馬市小高区に転居した作家の柳美里さんが2018年4月9日、常磐線小高駅から徒歩3分ほどのところに立ち上げた書店「フルハウス」だ。自宅兼用の店舗は、帰還を断念した住宅設備会社から譲り受けたものの、事業に要する費用については、住民の戻っていない旧避難地域では商売は成り立たないと銀行融資を断られ、一部クラウドファンディングなどによる資金援助が寄せられたなかでの船出だった。柳さん自身は、修繕やハウスクリーニングなどの費用を加えると3000万円の借金を背負うことになった。
柳さんが書店開業を目指したきっかけのひとつは、原発事故後、南相馬市原町区に仮設校舎を置いていた県立小高工業高校と県立小高商業高校が17年4月、統合して新生「小高産業技術高校」となり、小高区に校舎を戻すことになったからだ。避難指示は解除されたものの、街に帰った住人はまばら。暗くなったころ帰宅する高校生が電車を待つ間、気軽に立ち寄れる場所をつくりたいと考えたという。
もうひとつきっかけがある。柳さんが警戒区域に一時帰宅する避難者に同行したときのことだ。家のなかに入ると、書棚が倒れたまま、雨漏りなどで本が腐っていた。それを見て避難者は涙した。津波ですべての本を失ったことに心を痛めている人もいた。そんな人々の思いに触れて、被災者に再び本を届けられないかと考えたのだ。
柳さんは、オシャレ系のいわゆるセレクト書店ではなく、高校生や高齢者の需要にも応えられる書店を目指していたのである。
当初、柳さんは、大手取次との取引は厳しいと考えていた。開店前に私が柳さんを取材した折り、いまや個人による新規書店の開業はほぼ皆無、大手取次との取引もハードルが高いと話してしまった。ところが17年11月、柳さんが岩手県の被災地を訪問していたとき、たまたま「柳さんですか。小高で書店をやるそうですね。取次は決まりましたか」と尋ねる人がいた。取次の日本出版販売の社員だった。
柳さんは「そこがネックなんです」と答えると、社員は「それならうちでやりませんか。いま社長もきているので5分待ってください」と応じ、やってきた平林彰社長を前に「やっていいですか。やらせてください」と頼み込んでくれたそうだ。偶然にも、平林社長ら一行も被災地を視察するために、柳さんが滞在した同じホテルに宿泊していたというめぐりあわせだった。
開店時、副店長の柳朝晴さんに売れ行きを聞いたところ、初日は購入客数80人、販売冊数141、売り上げ18万50円に達した。休店日を除く7日間では、客数330人、販売631冊、売り上げ86万9660円と順調さを維持し、初期在庫の1割以上が売れた。取次の担当者からは「いい数字。月商300万円を目指して頑張りましょう」と言ってもらえたという。
書店の粗利益率は、小売業としては最低レベルに近い2割強しかない。月300万円の売り上げなら、60万円ほどの粗利だ。ここから地代・家賃や光熱費、外商用のクルマのガソリン代、あるいはローンの返済など諸々の経費を差し引けば、人件費に使えるのは30万円前後になる。生業として新刊書店が成り立つ最低ラインが月商300万円というわけだ。既存の街の本屋でさえ、これを大きく割り込んでいるところがかなりあり、新規参入書店にとってはなおさらハードルは高い。
震災直前、人口1万3000人近くだった小高区は、16年7月の避難解除を経ても帰還者や移住者を合わせた居住人口は18年3月末時点で2640人に過ぎず(今年7月末現在3606人)、いまや商圏人口が1万人を超えていても既存書店の存続が危ういのに、その半分以下の人口ではとうてい商売として成立しそうにないのは、傍目でもわかることだった。
そんななかフルハウスは幸先のいいスタートを切ることができた。でも、開店から1年を経ても出版物の売り上げだけでは、まだ人件費を出せていないという。柳さんが飛び込んだのは、実はそんな過酷な世界であったのだ。
とはいえ、柳さんの著作を筆頭に、料理や園芸、ガーデニングのような実用書から1万円を超える写真集まで、様々な本が人気だ。私が仕入れを勧めた月刊誌『現代農業』も棚にある。地元の人だけでなく、柳さんの著書を求めて全国からやってくる読書家もいる。被災地に心を寄せる人々のランドマークのひとつとしても定着しているようだ。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください