
一世を風靡したグループサウンズのザ・タイガース
ビートルズからGSへ――ジャニーズの好敵手登場
「不良」としてのGS
前回は、ビートルズ来日がきっかけとなったGS(グループサウンズ)ブーム、そしてそこには純粋な音楽的ムーブメントにとどまらない、芸能プロダクションによる仕掛けという商業主義的側面があることをみた。
だが一方でGSブームには、その商業主義を隠れ蓑に展開される混沌としたエネルギーの魅力があった。
GS研究を長年続けている社会学者・稲増龍夫は、GSには「歪められた商業主義の美学」があるとしている。商業主義のなかで新規性ばかりが競われるようになった結果、GSは一種のキワモノのようになっていく。たとえば、アダムスというバンドは神父姿でひざまずきながら「旧約聖書」という楽曲を歌った。また有名なところでは、オックスの赤松愛が歌の途中にファンも巻き込んで失神するという“パフォーマンス”も同様だろう。商業主義の果てに生まれたこうしたGS独自のカオスな魅力を、稲増は「無意味なアナーキーさ」と呼ぶ(稲増龍夫&ポップス中毒の会『歌謡曲完全攻略ガイド'68-'85』学陽書房、21頁)。

グループサウンズ「ザ・オックス」の公演では、ファンの「集団失神」が話題になった=1968年、日比谷公会堂で
この場合「無意味なアナーキーさ」とは、海外のロックムーブメントにはあった思想性や政治性が脱色された無原則な反秩序志向と言えるだろう。またその意味において、GSは「不良」であった。
したがって、思想性や政治性が少なくとも表面にはあまり出なかった分、それは社会変革志向というよりは、若者世代による大人世代への反発と受け取られた。従来の音楽の美しさの基準からすればノイズでしかないエレキギターのサウンドや「男らしさ」の基準から外れた長髪など、GSは大人への反抗を象徴する存在になった。
そうした世代間対立は、GSに対する会場貸し出し拒否が広がり、コンサートの会場前で学校の先生が生徒を追い返し、実際に行った場合は停学処分になるといった事態に発展していく。ワイドショーの生放送にザ・タイガースが出演して、文化人や学校の先生と議論したこともあった。その際、リーダーの岸部おさみ(現・岸部一徳)は、大人世代からの批判に対し、自分たちは「もっと綺麗な大人になりたい」と発言した(稲増龍夫『グループサウンズ文化論――なぜビートルズになれなかったのか』中央公論新社、27頁)。
結局、このような音楽以外の面ばかりが目立ってしまったこともあり、GSブームは数年で終わる。