
初代「ジャニーズ」=1965年、東京・有楽町の日劇スタジオ
GSとジャニーズ、その基本路線の対立
1964年にレコードデビューし、『NHK紅白歌合戦』に出場するまでになっていた初代ジャニーズ。だがアメリカ長期滞在から帰国した彼らを待ち受けていたのは、社会現象にもなった熱狂的なGS(グループサウンズ)ブームだった。初代ジャニーズは、その渦に巻き込まれるように解散に至る。前回はここまで述べた。
ビートルズからGSへ――ジャニーズの好敵手登場
「不良」だったGS、「夢」を追ったジャニーズ
その交代劇には、単なる人気争いという以上に、この後の男性アイドルの歴史をも大きく左右するアイドルとしての基本路線の対立という側面があった。
ひとつは、GSのように「歌って演奏する」か、ジャニーズのように「歌って踊る」か、である。そこには、素人とプロの対比もある。
前々稿「ビートルズからGSへ――ジャニーズの好敵手登場」で書いたように、エレキブームはアマチュアバンドブームでもあった。むろん実際のプロとアマでは演奏テクニックには開きがあったが、それでも一般の素人も気軽に楽器演奏を始める時代になったのは画期的なことだった(この流れは、1970年代の吉田拓郎や井上陽水らの登場によるフォークブームにおいていっそう拡大していく)。
一方ダンスは、この時代まだプロによる独占と言ってよかった。とりわけミュージカルのようなショービジネスのダンスを身につけるには特別な訓練を積む必要があった。初代ジャニーズは、ジャニー喜多川による演出・プロデュースのもとその特権を十分に生かしたと言える。だがそのアドバンテージをさらに確実なものにしようと渡米したことが、アイドルとしては仇になった。
そこからもうひとつの基本路線の対立も生まれる。
前稿「「不良」だったGS、「夢」を追ったジャニーズ」でもふれたように、GSを魅力的なものに見せていたのは不良性だった。それは、この時代特有の反体制気分も含んでいたものの、最終的には政治色の薄いエンタメ限定のものとして発展した。この連載でもおいおいふれたいと思うが、「ツッパリ」「ヤンキー」「やんちゃ」といったその後男性アイドル史に登場するキャラクターは、ここで定まった「不良」イメージのバリエーションでもある。