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『帰れない二人』のジャ・ジャンクー監督に聞く

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

ジャ・ジャンクー監督にジャ・ジャンクー監督=撮影・大野洋介

 中国の名匠ジャ・ジャンクー監督の新作、『帰れない二人』が公開されている。17年に及ぶヒロイン(チャオ・タオ)と彼女の恋人(リャオ・ファン)の紆余曲折する愛の物語を、激動する21世紀の中国社会――北京五輪開催決定、三峡ダム完成、経済の急成長など――を背景に、メロドラマティック、かつ叙事詩的に描き出した傑作である。

 したがって本作は、何よりもまず、<時の流れ>のなかで変化する、人の心、人と人との関係、人々のエートス(心の習慣)、行動パターン、世相・風俗に焦点を当てる。さらに、そうした<変化>と相即して、2001年の山西省・大同(ダートン)、2006年の三峡ダム完成間近の長江流域の古都・泰節(フォンジェ)、新疆ウイグル自治区、そして2017年、ふたたび大同へという、総移動距離7700kmに及ぶ空間移動=チャオの旅を描くロードムービーでもある。

 そして、ヒロイン個人をめぐるミクロ/微視的な視点と、その背景=舞台装置となる中国社会の激動する様相をめぐる、マクロ/巨視的な視点とが絶妙に重層されているがゆえに、すなわち、<小さな物語=メロドラマ>と<大きな物語=歴史>とが融合されているがゆえに、『帰れない二人』は見る者の心を揺り動かす。筆者は、この点を中心に、来日したジャ・ジャンクー監督へのインタビューを行なった。

――『帰れない二人』では、17年間に及ぶ中国社会の激動が、あくまでヒロインのチャオを定点にしたメロドラマとして、いわばマクロな視点とミクロな視点を見事に融合するかたちで描かれるという構成に、感嘆しました。

ジャ・ジャンクー ええ、まずマクロな視点から描かれている、とおっしゃってくださったことに非常に感謝します。よく観ていただいたなと思います。私は以前、『プラットホーム』(2000)において物語をある程度長い時間軸のなかで語ったことがあります。しかし、それ以外の『山河ノスタルジア』(2015)以前の作品では、限られた時間軸のなかでドラマを語ったわけですが、『山河――』と『帰れない二人』は、相当に長い時間のスパンのなかでドラマを語っています。

 そういう時間的構成にしたのはなぜか、というと、現在の中国というのは非常に情報があふれていて、私たちは情報過多の時代のなかで、目隠しをされて手探りで生きているような状況にあり、そんななかで人物や社会を描くときに何が重要かといえば、<時間>の描き方、つまり<時間>を長く設定して人物を観察していくことにより、マクロな〔社会や歴史を巨視的に眺める〕視点が生まれてくるからです。つまり、そういう長い時間軸のなかで、人物がどう動いていくかを描くことで、現実ないし歴史が浮き彫りにされることが可能になるのです。

 そして私は今、そのようにして、現代中国が抱えるさまざまな現実的なテーマを考えていくうえで、歴史をマクロな視点から描くことに最も関心があります。また、そうしたマクロな視点から現実を描くさいに、ラブストーリーというものが非常に大きな役割を果たすわけです。この映画は一見、たんなるラブストーリーに見えるかもしれないけれど、なにゆえにラブストーリーにしたかと言えば、それが人間の情感の表現方法として、とても効果的なジャンルだからです。

 そうした観点からすれば、この映画の主人公二人は、かつての青春時代においては、古い以前の中国人が持っていた情感の世界にいるのですが、中年にさしかかった二人が直面しているのは、新しい社会の新しい情感であるわけです。したがってこの映画では、その新しい情感のあり方を、ラブストーリーによって見せる(表現する)ことが重要だったのです。また、以前の中国では、ほとんどの人がある限られた区域から出なかった、つまり各人が家庭や小さな地域のなかで生活していたのですが、今は皆が外に出て行って移動している。その流れていく、移動していくなかで、人々は過去の情感を捨て去っていき、昔の良きものだったかもしれない情感も、おのずと壊れていき失われていくのです。

c2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved『帰れない二人』 チャオチャオ(左、チャオ・タオ)と彼女の恋人ガオ・ビン(リャオ・ファン) (c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved

男と女の、義理と愛情

――なるほど。今、監督が言われたことのポイントの一つは、長い時間のスパンのなかで、社会の様相とともに二人の男女の思いが、そして二人の関係が変化していくということですね。しかし、時の流れのなかでビンの心が変化していく、つまり心変わりしていくのに対し、ヒロインのチャオはビンへの思いを一途に持ち続け――むろん彼女も時とともに成長し、したたかな知恵を身につけていきますが――、いわば映画のなかの定点として存在するわけですね。ビンが新しい恋人をつくり、チャオを裏切るにもかかわらず、彼女は彼を思い続ける。ただ、チャオのビンへの変わらない思いは、もはや恋愛感情という意味での情感とは違うものかもしれません。後半、病を得て車椅子生活を余儀なくされているビンに対するチャオの献身は、ある種の介護のようにも思えますが、彼女は、この映画のキーワードの一つである「江湖(こうこ)の義理」(後述)という規範、掟を忠実に守ったのかもしれませんが、どこの国にもあるだろう、時間の流れのなかで変わる、あるいは変わらない男女の心が極めて巧みに描かれていると思います。

ジャ そうですね、チャオが、ビンに裏切られたにもかかわらず、病気になった彼への愛を貫くのは、彼女の人物像の解釈にかかわることです。つまりチャオのビンへの献身的な愛は、彼女自身「義理(人情)」からくるものだと思っているようですが、にもかかわらず、私は彼女の行為のなかには義理だけではなく、情つまり愛情がある、と考えています。それを彼女自身、必ずしも自覚してはいないかもしれませんが。まあ、よく冗談半分に聞かれるのですが、この二人はシニアになってもまた出会い、とてもいい仲になるのではないかと思います(笑)

c2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved撮影・大野洋介

<変革>のなかに生きる現代中国の人間を描きたい

――ああ、いい意味での腐れ縁なわけですね、二人は。納得です。それで、これはジャ監督の作風に関してのことですが、監督がお好きだと言っている香港のギャング映画、ジョニー・トーやジョン・ウーの作品と監督の作風はあまり似ておらず、アクション描写にせよ風景の撮り方にせよ、似ているのはむしろ、台湾のエドワード・ヤン、ホウ・シャオシェンの作品のタッチではないかと思うのですが。

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