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ヤルタ・ポツダム体制の終焉と植民地主義の清算

日韓の政治的緊張を生み出す事案は「戦争」よりも「植民地支配」に起因

中沢けい 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

板門店の通路。奥に見えるのは北朝鮮側施設「板門閣」。軍事停戦委員会の会議室(手前の二つの建物)の中央に軍事境界線が延びている=2018年4月18日、李聖鎮撮影

 韓国と北朝鮮の間に横たわる非武装中立地帯を横切り、板門店まで出かけたのは2014年2月だった。外国人観光客向けのバスツアーだった。2018年4月に板門店で行われた南北会談以来、板門店訪問のバスツアーは人気のあるコースとなっていると側聞する。朴槿恵政権で南北間に武力衝突の緊張が走っていた2014年冬と、板門店で文在寅、金正恩会談が行われたあとの現在では、板門店訪問のバスツアーの雰囲気もかなり様子が違ったものになっていることだろう。

板門店バスツアーで聞いた朝鮮半島分断の事情

 私が出かけた時は一台のバスの前方に日本語ガイドのグループが座り、後方には英語ガイドのグループがいた。バスが非武装中立地帯に入ったところで、日本語ガイドから朝鮮半島分断の事情説明があった。第二次世界大戦終了前後の国際情勢と外交事情を猛烈な早口で語るガイドさんの説明に面食らったものだ。バスに同乗していた日本の大学生たちにはおそらく何を話しているのか理解できなかったのではないか。その時、私をこのツアーに案内してくれた同行者が「英語の説明はしごくシンプルで分かりやすいものでした」と教えてくれた。「朝鮮半島の分断はヤルタ会談によって決定された。その決定は日本が朝鮮半島を植民地としていたためにされた決定だ。したがって朝鮮半島分断の責任は日本にある」とそのような趣旨の英語の説明がされていたそうだ。

 第二次世界大戦終了まぎわ、日本の敗戦は時間の問題となり、朝鮮半島の統治に空白ができることを前提にイギリスのチャーチル、米国のルーズベルト、ソビエトのスターリンの会談で決定された国際レジームの一環だ。このヤルタ会談とポツダム会談を合わせてYP体制と呼ばれることはかねて知ってはいたが、朝鮮半島を南北に分ける非武装中立地帯の冬景色の中で聞いた英語ガイドと日本語ガイドの説明の仕方の違いが、強く印象に残った。おそらく英語ガイドのようなシンプルな説明を日本語でした場合は、ツアーの参加者から異論が出されたり、時にはひどい嫌がらせをされたりすることが度々あったのだろうと推察された。複雑な事情を詳しくそして早口で揚げ足取りをされたりしないように説明するというのは、現場のガイドさんの経験から生まれてきた知恵だったにちがいない。

朝鮮戦争にも植民地からの独立解放の側面

 朝鮮半島の南北の分断と朝鮮戦争終結は、1991年のソビエト崩壊に端を発する冷戦終結の延長として語られることが多い。遅れた冷戦終結と捉えるよりも、YP体制の終焉と見たほうが、いろいろと得心が行くことがあると考え出したのは、板門店へのバスツアーの経験の印象が強かったからだ。朝鮮戦争は米ソの冷戦状態を作り出す戦争となったが、その背景には朝鮮半島の民族独立という課題がある。米国が介入したベトナム戦争では、背景に植民地からの解放と独立という目的を持つことが米国の反戦運動で語られていたことは承知していたが、朝鮮戦争もイデオロギー対立と同時に植民地からの独立解放の側面を持っていると考えることは少なかった。

 朝鮮戦争終結への動きは東西冷戦の終了と考えるよりもYP体制の終焉と見たほうが、いろいろと納得できるのではないかと考え始めたもとには、板門店観光ツアーの日本語ガイドと英語ガイドの違いという体験があったのだが、その印象形成は間違いではなかったと感じることが、近頃はさらに多くなった。

 1991年から始まり、断続的に開催された日韓文学者会議に、私は93年の済州島から参加してきた。韓国の小説家、詩人、ときにはイ・チャンドンなどの映画監督なども参加したこの会議では、日韓の間でしばしば奇妙なすれ違いや混乱が起きる現場に出会っている。思い出すだけで、微苦笑が漏れる場面も少なくはないが、それはまたの機会に書けることがあれば書きたい。

日韓関係で語られることが少ない「植民地支配」

 ここでは、混乱やすれ違いの多くが、韓国側が植民地主義とそれを支えた帝国主義に関してどう感じているのか、どう考えているのかという質問をしたにもかかわらず、日本側が戦争に関する感想や感慨を述べてしまうということに起因していたことが今さらながらに想起されることを述べたい。帝国主義・植民地主義は戦争と不可分であり、

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