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世界の書店を訪ねて――人生で一番大切な場所

駒井 稔 編集者

 出版界で働きだしてから40年。書店通いは続けてきました。通勤の途中に利用できたリブロ池袋本店にはずいぶんお世話になりました。しかも国内はもちろん、仕事やプライヴェートで海外に行くたびに、地元の書店を訪ねたのは、編集者の性と言ってもよいかもしれません。どうしても素通りできないのです。全く言葉が分からなくても、書店の雰囲気だけは伝わってきますし、その国の文化に特有の肌合いのようなものを感じ取ることができるからです。

 今年の夏にオーストラリアのメルボルンを初めて訪れました。ぶらぶらと街歩きを楽しんでいると、書店の看板がすぐに目に入ってきました。すでに足はそちらに向けて歩き出しています。最初に入ったのは、2階建てのそこそこ大きな書店でした。重いドアを開けて中に入ると、日本では見慣れたレジ横に積まれたお勧め本やPOPの類いが一切ないことに軽い戸惑いを覚えました。しかし、店内はとても落ち着いた雰囲気で好感が持てましたし、お客さんもたくさん来ています。

 店の隅では、父親に連れられた少女が床に座り込んで本を読んでいます。入口には新刊本と思しき本が並べられてはいましたが、2階に上がると「Classics」と書かれた大きな棚があり、『罪と罰』『白痴』『アンナ・カレーニナ』『嵐が丘』などの定番につづいてホメロスの立派な詩集まで置いてあるのには驚きました。日本でも街の書店に古典の文庫は置かれてはいますが、これだけの分量がそろえてあるのは珍しい。もちろん買いにくる読者がいるからでしょう。

オーストラリアのメルボルン拡大アメリカの作家、トニ・モリスンの言葉を紹介しているオーストラリア・メルボルンの書店=筆者提供

 しかし最も印象に残ったのは、翌日、偶然通りがかった、もっと小さな書店でした。入り口に大きな黒板を置き、そこに書店員の手書きで先ごろ亡くなったアメリカの作家、トニ・モリスンの言葉が書いてありました。

 「If there's a book that you want to read,but it hasn't been written yet,then you must write it」

 書店の入り口に無造作に置かれた、なんの工夫もない黒板にチョークで書かれたこの言葉は、私に久しく味わったことのないある種の衝撃を与えたのです。自分は今、書店にいるのだ。ここは単に「商品」を売る場所ではない、というメッセージが伝わってきたのです。これは稀有なことだと思いました。

 イギリスでは湖水地方までドライブした時に立ち寄った小さな町の古書店が忘れられません。二人の若い女性が店番していました。入っていくと読んでいた本から顔を上げ一言「ハロー」というとまたすぐに本に目を落としました。私が素敵な装丁のワイルドの本を抱えて戻ると、丁寧に包装してこちらに手渡し、礼を言うとすぐにまた読書を始めるのです。本当に本が好きなのだな。自分と同じ人間がここにいると感慨深く思ったものです。

 ロンドンの大きな書店のレジでは、女性の店員が客と長い会話をしていたのも忘れ難い。彼女は「この本を読んだら、次にはあの本を読むべきよ」と客を相手にかなりの長広舌をふるっていましたが、他の客は文句も言わず黙って列を作っていました。

 旧ソ連時代のモスクワにあった国営書店にも行きました。ロシア語が全く分からないので何の本が並んでいるのかも皆目わからず閉口しましたが、店内で本を渉猟するロシア人たちの熱量だけは確実に伝わってきました。ここでも本は商品ではありませんでした。


筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです