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世界の書店を訪ねて――人生で一番大切な場所

駒井 稔 編集者

20世紀の文学者と交流した伝説の書店

パリの書店で拡大パリの書店「Le Coupe Papier」=筆者提供
 近刊の『世界の書店を旅する』(ホルヘ・カリオン著、野中邦子訳、白水社)は、本を愛する人には眩暈のするような本であると思います。著者は1976年生まれのスペイン人。バルセロナの大学で文学と創作を講じるかたわらエッセイや小説、紀行文を執筆していると紹介文にあります。しかし一読して、驚愕するのは彼の訪れた世界中のおびただしい数の書店、そしてその書店と関係のある文学、および作家に関する膨大な知見です。生半可な知識では、本書に登場する世界中の作家の固有名詞に翻弄されるだけで終わってしまうような内容なのです。

 すでに世界16カ国で翻訳されたという本書の読みどころは、世界中の書店を訪ね歩いた著者の飽くなき探求心にあるのではないかと思います。アテネに始まり、ポルトガル、イギリス、イタリアなど、訪れた数々の書店の歴史について述べていく手法はまさに圧倒的です。すべての書店の詳細な歴史とその書店と関係のある作家と作品、文学的交友などのエピソードをこれでもかというくらいに繰り出してくるのです。

 冷戦下の東ベルリン「カール・マルクス書店」と西ベルリンで1976年に作家のギュンター・グラスが開業した「作家書店」の対比、さらには東方の書店としてモロッコのタンジール、トルコのイスタンブールの書店レポートが続きます。もちろん中国や日本にも来ています。それこそ「リブロ」で見た村上春樹の本の感想も書き残しているのです。北米を東から西へ、中南米ではメキシコシティ、リオデジャネイロ、サンティアゴ等々。そしてシドニー、メルボルン。南アフリカのヨハネスブルグ、ケープタウン。こんな本は読んだことがないというのが正直な感想ですが、本来のテーマである書店についてこんな考察を披露しています。

パリの書店で拡大パリの書店「Le Dilettante」=筆者提供
 「書店の歴史は図書館の歴史とはまったく別物である。書店は連続性を欠き、制度的な支援もない。公共のニーズに応えようとする起業精神に富んだ個人の事業としてかなりの自由が許されるが、一方で、まじめな研究の対象とはならず、観光ガイドブックにもめったに載らず、学術論文のテーマとなるのは、ついにとどめの一撃が下され、神話の領域に入ってからである」

 アメリカ人のシルヴィア・ビーチがパリで開業していた、それこそ神話的な書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」についても一章を割いています。シルヴィア・ビーチ自身も回想録を書き残しています。『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』(中山末喜訳、河出書房新社)がそれです。この書店は、まずなによりもジョイスの『ユリシーズ』を出版したことで知られています。回想録に登場するジョイスの等身大の描写も大変興味深い。さらには当時のアメリカの作家、たとえばヘミングウェイについてこんな風に書いています。

 「私たちが愛し、少しの迷惑もかけないお客様であったのは、毎朝、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の片隅で、雑誌類、あるいはキャプテン・マリアッツやその他の本を読み耽っていた一人の青年でした。これがアーネスト・ヘミングウェイでした」

=筆者提供拡大パリの書店「Le Dilettante」のディスプレイ=筆者提供
 パリで暮らす若き日のヘミングウェイの姿が浮かんできませんか。ヘミングウェイは何をしても真剣で有能だったとシルヴィアは書いています。たまたまある朝ヘミングウェイの家に立ち寄った時、彼が赤ん坊を巧みに入浴させていることに驚いているのです。シルヴィアはもちろんフランスの作家とも交流がありました。アンドレ・ジッドはこの書店の支持者でしたし、ポール・ヴァレリーとも深い交流がありました。

 1930年代の不況で経営状態が悪化した時に、ジッドを中心にアンドレ・モーロア、ポール・モラン、ジュール・ロマン、そしてヴァレリーなどが救済計画を立ててくれたのです。彼らは順番に未完の作品を朗読する企画をたてて、出席者には年間200フランの寄付を呼び掛けたのでした。最初はジッドが朗読し、ヴァレリーも美しい詩を朗読し、T.S.エリオットもロンドンから駆け付けたと言います。書店は作家たちのパフォーマンスに救われたのです。

 やがてドイツとの戦争が始まりパリは占領されて、シルヴィアもドイツ軍に連行され、書店も閉鎖されます。しかし、ついにパリ解放の日がやってきました。ある日、「シルヴィア!」と叫ぶ声がします。戦闘服を着たヘミングウェイのものでした。奇跡的な邂逅が実現したのです。アメリカ人女性が開いたこの書店が今も伝説として語り継がれるのは、20世紀の文学者との生な関わりが記録されているからでもあります。繰り返しになりますが、書店は文化の中心でありうることを描いた優れた回顧録です。

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筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。