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「拝謁記」が投げかけた昭和天皇と田島道治の謎

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

「拝謁記」は何を語るのか

 2019年8月17日に放送された「NHKスペシャル 昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録 拝謁記」は大きな話題を呼んだ。1948年6月から1953年12月まで、宮内庁(当時は宮内府)長官を務めた田島道治が残した記録に、田島と昭和天皇の対話が克明に記録されており、その中には天皇自身が退位に言及する場面や、戦争を止めえなかった悔恨と反省の言葉が記されていたからである。NHKは番組を告知するWebサイトで「昭和天皇の生々しい肉声が記された超一級の資料の全貌」と書いている(「NHK NEWS WEB」)。

 番組の中で特に強調されたことがふたつある。

 ひとつめは、天皇の退位問題が決着したとされる「定説」の時期(1948年11月)よりもかなり後になって(1949年12月)、退位の希望が田島に明かされていたことである。

 1948年秋は極東国際軍事裁判(東京裁判)が大詰めを迎えた年である。世間では判決が出た段階で天皇の退位が発表されるとの観測もあったが、実はその当日(11月12日)、田島が代筆したマッカーサー宛ての書簡で、天皇に退位の意思がないことが伝えられていた。書簡に「退位」の言葉はないが、先にマッカーサーが伝えた在位を求めるメッセージへの感謝を述べ、「日本の国家再建」のために尽くすことが約されていたのである。

 もちろんこの書簡は秘匿されていた。発見した歴史家の秦郁彦は関連資料を渉猟して、この書簡がほぼ間違いなく「退位せず」の意志表明であると推論したのである。これがほぼ「定説」となっていた。

 しかし実際には、それから約1年後、天皇は田島に向かって、講和条約締結を機に退位または譲位を考えていると述べた。ただし東宮(明仁)がまだ若く経験に乏しいことを心配し、早く外国訪問をさせたいという希望も付け加えていた。

 この「退位」発言がどの程度の熱意のものかは、NHKの番組だけでは読み取れない。当時左翼勢力はいうまでもなく、東大総長南原繁を筆頭に知識人の間でも退位論は珍しくなかったし、戦犯として服役中の木戸幸一(元内大臣)は独立の回復時に退位すべきだと具体的な時期も示していた。ゆえに私などから見ると、天皇の気持ちが再び退位に揺り戻されるのもさほど不可思議なことではないが、戦後史研究にとってはきわめて重大な「発見」なのだろう(歴史家の吉田裕は番組中で「予想しなかった」とコメントしていた)。

満51歳の誕生日、講和条約発効を報じる新聞を読む昭和天皇=1952年4月29日満51歳の誕生日、講和条約発効を報じる新聞を読む昭和天皇=1952年4月29日

言葉をめぐるせめぎあい

 ただNHKが天皇の根強い退位の意思をことさらに強調したのは、次の「おことば」問題への伏線だったのかもしれない。

 「おことば」とは1952年5月3日の講和条約発効記念式典で読み上げられた文書であり、この作成に向けて、天皇と田島の約1年にわたる、地を這うようなやりとりが「拝謁記」には克明に記されていたのである。

 そしてNHKがふたつめに採り上げ、もっとも力を入れて描いたのは、この「おことば」の作成に打ち込む田島の姿である。

 田島との対話の中で、天皇は「反省」の2文字を「おことば」に書き込むことにこだわった。戦争の惨禍で傷ついた軍人や一般国民に対する謝罪、同時に(実は第一義には)皇祖皇宗に対する謝罪と共に、そうした事態を押しとどめられなかった自身の「反省」を表明することが必要だと天皇は考えていた。もし退位を選択しないなら、「反省」はどうしても言い置いておかなければならない言葉だったのである。田島の記録によれば、天皇は「(これまでのように)カモフラージュでゆくのか実状を話すのか」と二者択一を迫ったという。

 天皇が「おことば」に織り込もうとした「反省」の2文字は、太平洋戦争のみならず、15年におよぶ日中戦争、さらにその発火点となった張作霖爆殺事件(1928年)への対応にも遡っていく。軍の「下剋上」を押しとどめえず、東条内閣による日米開戦を抑えきれなかったことを深く遺憾とする気持ちを表さずにはいられないと天皇は考えていた。

田島道治の「拝謁記」から。吉田茂首相の反対で、戦争に対する「反省」を述べた一節がおことばから削除されたことについて、昭和天皇が「今日ははつきり不満を仰せになる」と1952年4月に田島は記した田島道治の「拝謁記」から。吉田茂首相の反対で、戦争に対する「反省」を述べた一節が「おことば」から削除されたことについて、昭和天皇が「今日ははつきり不満を仰せになる」と1952年4月に田島は記していた

 しかし天皇の意向は、ついに歴史の表舞台に出ることはなかった。田島は「おことば」の推敲を重ねつつ、首相吉田茂の説得にあたったが、退位に真っ向から反対した吉田は、「反省」の2文字も認めようとしなかったのである。

 「おことば」の推敲が大詰めに差し掛かった1952年3月4日、田島は吉田に会い、意見を求めた。吉田は田島に向かって憲法の尊重や新日本の理想を強く打ち出すように求めた。

 そして3月30日に田島が送った修正案に対して吉田から返信が届いた。戦争への悔恨を述べた一節すべてを削除すべしとの考えだった。吉田は戦争や敗戦などの暗い時代に言及することはもうやめて、国の未来や希望などの明るい話題にスピーチの軸を移すように求めた。さらに釘を刺すように、戦争の話題は天皇の戦争責任というもっとも忌避すべきテーマを呼び覚ます怖れもあると述べた。

 天皇は「戦争のことを言わずして、反省のことがどうしてつながるのか」と不満を漏らしたが、田島は吉田の意を伝える役目を自身に課す。首相の懸念を箇条書きのメモにまとめ、天皇を説得したのである。

 天皇は田島の「国政の責任者である首相の意見は重んぜらるるべき」という説明を聞き、「(田島)長官が考えた末だから、それでよろしい」と返した。1年近くの作業が天皇の意に添えなかったことを詫びる田島に向かって「大局から見てこの方が良いと思う」との言葉が発せられる。

 この一部始終が、片岡孝太郎(昭和天皇)と橋爪功(田島道治)の二人が演じる仮想ドラマ(NHKが最近多用する「たぶんこうだったんじゃないか劇場」風に)に構成されていたことは付け加えておいていいだろう。多少の皮肉を込めていえば、視聴者は昭和天皇と宮内庁長官の不思議な(宮中風?)言葉遣いの対話をそれなりに楽しんだのである。

“拝謁記発見”と先行研究

 すでに何人かの識者が指摘しているように、田島が天皇との対話を記録していたこと、その中で天皇が謝罪を述べたいと語ったこと、ふたりがその準備をしながら吉田などに反対されて表明の機会を失ったことは比較的よく知られている。一般的な文献でも、この事実に触れたものは少なくない(たとえば原武史『昭和天皇』、岩波新書、2008)。

 また、「拝謁記」の一部をなす「田島日記」は、文学研究者の加藤恭子が『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ、2002)を書くにあたって閲読・分析しており、初めて存在が知られたわけではない。

 前掲の『昭和天皇』の著者、原武史は「田島元長官の残した文書については加藤恭子氏の先行研究があり、『新事実』を強調するNHKの報道には違和感がある。先行研究にまったく触れないのは誤解を与えるのではないだろうか」と述べている(「日本経済新聞」2019年8月19日)。また作家の保阪正康も、加藤の研究に触れた上で「『拝謁記』が初めて表に出た意義は大きいが、内容すべてを新発見として扱うのは誤りだ」と書いている(「毎日新聞」2019年8月28日)。

 実は加藤は『田島道治』の刊行後、田島家から預かった文書の中から、先の「おことば」の初期草稿と思われる文書も発見している。この「謝罪詔勅草稿」は、『文藝春秋』2003年7月号で紹介されている。

 内容を要約すれば、天皇は「悲痛ナル敗戦」と「惨禍今日ノ甚シキニ至ル」という認識のもと、

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