大河ドラマが描かなかった新聞記者の顔
2019年09月28日
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治(1898~1984)。1964年の東京オリンピック招致に尽力したこの人、戦前は朝日新聞の政治記者だった。
ドラマでは阿部サダヲが、早口で、そそっかしくて、情熱家で、水泳と自由を愛する「河童のまーちゃん」として、魅力的に演じているが、実際の田畑とは、どんな人物だったのか?
『いだてん』のオープニングでは「新聞考証」とクレジットされている朝日新聞社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、ドラマでは描かれなかった田畑の素顔にせまる。
番組ホームページによると、『いだてん』は10月20日から「1964年東京オリンピック篇」に入る。古橋広之進役に北島康介、「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボールチームの主将・河西昌枝役に安藤サクラ、記録映画の市川崑監督役に三谷幸喜、国立代々木競技場を設計した建築家丹下健三役に松田龍平、などなど、出演者にも、「そう来たか」と思わせる顔ぶれが並んでいる。
さて、水泳指導者と朝日新聞記者の二足のわらじを履く、主人公の田畑政治。これまでドラマでは、水泳に没頭していたように描かれてきたが、それは番組終わりで断っているように「史実に基づいたフィクション」。朝日新聞社の記録や当時の上司・同僚・後輩の回想からは、戦争に突入した激動の時代を駆けた政治部記者の姿が現れてくる。
1924年(大正13)5月1日に、田畑は朝日新聞社に入った。
朝日新聞社は23年3月から、大学卒業者を入社試験で採用する制度を始めていた。この年の9月の関東大震災で東京の社屋内が全焼したが、新聞発行をすぐに再開して人材は必要だったために、2年目の採用試験は行われた。田畑はこれを受けた。
編輯局(へんしゅうきょく)の幹部だった緒方竹虎が、戦後の社内座談会で回想している。
「(採用試験の面接には)村山龍平社長も出て来られて品定めをしておられた。あの顔はよさそうだから採ってやれというので、田畑政治君なんか、おめがねにかなっていたようだったね」
政治部記者となった田畑政治は、まもなく昭和への代替わりを迎える。大正天皇が重病となり、田畑たちは宮内省に詰めた。容体が刻々と発表される。その都度、というか発表の途中でも、メモを書き取った記者は別の記者と入れ替わるや、宮内省の廊下や階段を全力疾走して、電話のある部屋へ。そこから社に電話をして容体を告げたら、また発表の部屋にとってかえす。そんな日々だった。
1928年(昭和3)2月20日、普通選挙制度となって最初の総選挙が行われた。田畑は選挙戦終盤の取材で、18日に静岡県に出張し19日に帰社した。翌29年(昭和4)11月には、前月に立憲政友会総裁に選ばれた犬養毅の東北遊説に同行取材している。
田畑のこうした記者の仕事は、一部ではあるが、記録に残っている。しかし、水泳については、朝日新聞社員としての記録が見つからない。
1932年(昭和7)にはロサンゼルス五輪に水泳チームの総監督として参加し、男子6種目中5種目に金メダルをもたらしたのだが、長期にわたったというのに、ロスに出張した、あるいはその間に休暇を取った・休職した、という記録が無い。
ロス五輪を取材し、写真や映像を手配するための特派チームは、新聞紙面や社内報で紹介されている。田畑の名前はそこには無い。ところが突然、社内報にこうした記事が載る。
ロス五輪100m自由形で優勝した宮崎選手への村山龍平社長からの祝電に対して「水上聯盟(れんめい)代表者 田畑政治」から謝電があった。
1933年(昭和8)9月28日の東京朝日には「日本水上競技聯盟田畑政治寄」とした投書が載り、35年(昭和10)6月15日の東京朝日スポーツ面には「恐米意識一掃の好記録期待さる 三大学水上戦予想」とした大きな署名記事を書いているが、これも朝日記者としての田畑政治という扱いではない。
まるで、朝日新聞政治部記者の田畑政治と、同姓同名の水泳指導者と、2人の人物がいたかのような記録・紙面だ。
田畑政治は二足のわらじを、勝手気ままに履き分けていたのだろうか。
今日の朝日新聞社ならば「水泳の活動そのものが、ありえない」というのが、大方の社員の認識だが、実は当時も、社外活動は「服務内規」で禁止されていた。
「社外の業務に従事し、もしくは関与し、その他これに類似の行為あるべからず」
「ただし」と、次の記述が続く。
「特に総務局の認可を得たる者はこの限りにあらず」
田畑は、1936年(昭和11)のベルリン五輪にも選手団を率いて何週間も現地に行っている。やはり田畑自身の出張や休暇の記録あるいは経費の記録は、同時期の他の社員のケースが記載されている社内文書の中にも載っていないのだが、「総務局の認可」は得ていたに違いない。
また後輩たちが回想録などで伝える「政治記者田畑」は立派なものだ。当時の野村秀雄政治部長が先鞭(せんべん)をつけた「夜討ち朝駆け」を率先して実行し、後輩を連れても行った。政治家たちの懐に飛び込むが、「書き急がない」。つかんだネタは後輩記者に伝えて特ダネにさせる。自身で書く記事は「簡にして要を得ており、新聞記者としての勘は素晴らしい」と当時のデスク細川隆元は振り返っている。
一つだけ、田畑政治が仕事をあまりしなかったことを、同僚が、朝日と陸軍との間にあった問題を回顧した中で書いている。34年(昭和9)の予算編成時期、田畑は陸軍省を担当していた。しかし陸軍取材には不熱心で、同僚から顰蹙(ひんしゅく)を買ったし、野村部長も困っていた、という。
しかしほとんどの場合、政治記者田畑の仕事ぶりは、緒方竹虎ほかの上司にも、同僚にも、後輩にも認められていた。それゆえに、水泳活動について非難するような声も上がらなかったようである。
もう一つ、推論となるが、当時の朝日新聞社が、水泳についてとっていたスタンスが、田畑の活動を支えていたと考えられる。
朝日新聞社が1915年(大正4)から主催していた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)は、体育教育に貢献すると同時に新聞販売にも役立っていた。
そこに、28年(昭和3)のアムステルダム五輪で、水泳の日本選手が金、銀、銅のメダルを獲得。朝日新聞社はにわかに水泳にも注目するようになった。同年10月、「国際水上競技大会」を主催した。そもそもは、すでに水連の理事だった田畑の発案だろうし、社内報の文面からは、費用もマンパワーも水連が引き受けていたことが読み取れる。
ただ、田畑としては、水泳の事業を中等学校野球大会のように新聞社1社が主催していくようになることは避けたのではないだろうか。朝日新聞社としても、野球大会に加えて水泳までも社の全国的な事業としていく余裕は無かったのか、翌年以降、大きな水泳大会を主催していない。
さらに推論を重ねれば、当時から戦中にかけて、特に陸軍と朝日新聞の関係は悪化していき、国民の体育向上をコントロールしたい軍部と文部省は、朝日新聞が中等学校の野球大会を主催し続けることを良く思っていなかった節がある。現実に41年(昭和16)の第27回大会が全国大会前に中止になったのに続いて、翌42年(昭和17)には文部省支配下の中等学校総合競技会に包摂されることになった。これらの経緯について、戦後に野球大会の推移を回顧した朝日新聞社内での関係者座談会が、軍や政府の考えを振り返っている。
こうした状況から、田畑政治自身が政治記者と水泳の両立を果たしていることもあり、朝日新聞社としては、水泳を事業として展開するよりも、その中心人物を抱え続けていく方針を立てたとしても不思議ではない。
そんな意見や判断を記録した会議録や書簡・メモの類は、発見できていないが、緒方竹虎のコメントが象徴的だ。政治部の中で田畑政治の後輩が先にデスクになっていった頃、部員たちの前で、緒方編輯局長が少しいたずらっぽい笑いを見せながら言ったという言葉だ。
「田畑はエラくならなくってもいいんだよ。田畑には水泳があるんだから」
次回は、戦中、水泳活動を休止せざるを得なかった時期の、朝日新聞記者・田畑政治の姿を紹介します。
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