前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「河童のまーちゃん」が水泳の道を断たれて
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治( 1898~1984 ) は、朝日新聞の政治記者をしながら、水泳指導者として日本選手たちを世界トップに導いた。しかし、時代は日中戦争、太平洋戦争へ。ドラマの中でも、田畑を演じる阿部サダヲが見せる苦悩の色が濃くなっている。二足のわらじのうち、水泳・スポーツのわらじを脱がざるをえなかった戦中期、実際の田畑はどんな日々を送っていたのだろうか。朝日新聞の社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、敗戦までの田畑と朝日新聞社内の様子をたどる。
1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件は、朝日新聞にとって、来るものが来たというものだった。
7月12日発行の夕刊「北支の情勢俄然(がぜん)重大化す」の記事。縦見出しで「我軍満を持し対峙中」と報じたが、朝日新聞もまた、取材態勢を整えていた。13日の朝刊で「北支事変本社報道陣 四十三名を動員す」と社告したのをはじめとして、以降11月8日まで事変特派員の社告は11回、延べ総数138人にのぼった。
報道だけではない。1週間後の7月20日朝刊では「軍用機献納運動」の社告を掲載し、以降、読者からの資金募集キャンペーンを継続していく。
こうして日中戦争が拡大していくなかで、1938年(昭和13)7月、日本政府は閣議で40年(昭和15)の東京オリンピック開催権を正式に返上した。
五輪返上の決定から数カ月後、田畑政治も日中戦争の取材に特派された。1938年(昭和13)10月13日の社告「本社報道陣更に充実 南支戦線へ新鋭増派」の69人のなかに、田畑の名がある。
特派記者やその活動をサポートした庶務部員たちが、戦後の1973年、社内記録用に回想している。そこから特派員・田畑の動きをピックアップすると――。
東京部隊と呼ばれた101師団に従軍することになり、9月2日、羽田から飛行機で発ち、福岡・板付を経由して上海に渡った(社の文書課の名簿では9月7日出発と記載)。
同師団は武漢作戦の第十一軍=揚子江南岸地区進攻部隊に含まれ、田畑はその中の「海軍遡航部隊」に従軍していた。当時の従軍では、記者、写真、映画、無電技師がセットとなって「報道班」が構成されていた。田畑は漢口占領の翌日10月27日早暁、九江から駆逐艦皐月(さつき)に便乗して揚子江をさかのぼり、同夕、雨の降る漢口に到着し、すぐに上陸した、という。
この武漢作戦に朝日新聞が取材に投入した人員は約400。
戦闘員として戦場に赴く社員たちは、このころから増え続けていった。戦死の報も次々と届いた。
田畑と共に駆逐艦で漢口に上陸した大阪朝日新聞の記者が、別の回想記に書いている。
「(特派されたみんなは)漢口占領で日支事変は終わると楽観していたようだ。それが第二次世界大戦まで拡大しようとは夢にも思っていなかった」
ただ、田畑が特派員として発信したことが確認できる記事を探して当時の紙面を見ていったが、この稿を書いている段階では特定できなかった。