「河童のまーちゃん」が水泳の道を断たれて
2019年10月05日
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治( 1898~1984 ) は、朝日新聞の政治記者をしながら、水泳指導者として日本選手たちを世界トップに導いた。しかし、時代は日中戦争、太平洋戦争へ。ドラマの中でも、田畑を演じる阿部サダヲが見せる苦悩の色が濃くなっている。二足のわらじのうち、水泳・スポーツのわらじを脱がざるをえなかった戦中期、実際の田畑はどんな日々を送っていたのだろうか。朝日新聞の社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、敗戦までの田畑と朝日新聞社内の様子をたどる。
1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件は、朝日新聞にとって、来るものが来たというものだった。
7月12日発行の夕刊「北支の情勢俄然(がぜん)重大化す」の記事。縦見出しで「我軍満を持し対峙中」と報じたが、朝日新聞もまた、取材態勢を整えていた。13日の朝刊で「北支事変本社報道陣 四十三名を動員す」と社告したのをはじめとして、以降11月8日まで事変特派員の社告は11回、延べ総数138人にのぼった。
報道だけではない。1週間後の7月20日朝刊では「軍用機献納運動」の社告を掲載し、以降、読者からの資金募集キャンペーンを継続していく。
こうして日中戦争が拡大していくなかで、1938年(昭和13)7月、日本政府は閣議で40年(昭和15)の東京オリンピック開催権を正式に返上した。
五輪返上の決定から数カ月後、田畑政治も日中戦争の取材に特派された。1938年(昭和13)10月13日の社告「本社報道陣更に充実 南支戦線へ新鋭増派」の69人のなかに、田畑の名がある。
特派記者やその活動をサポートした庶務部員たちが、戦後の1973年、社内記録用に回想している。そこから特派員・田畑の動きをピックアップすると――。
同師団は武漢作戦の第十一軍=揚子江南岸地区進攻部隊に含まれ、田畑はその中の「海軍遡航部隊」に従軍していた。当時の従軍では、記者、写真、映画、無電技師がセットとなって「報道班」が構成されていた。田畑は漢口占領の翌日10月27日早暁、九江から駆逐艦皐月(さつき)に便乗して揚子江をさかのぼり、同夕、雨の降る漢口に到着し、すぐに上陸した、という。
この武漢作戦に朝日新聞が取材に投入した人員は約400。
戦闘員として戦場に赴く社員たちは、このころから増え続けていった。戦死の報も次々と届いた。
田畑と共に駆逐艦で漢口に上陸した大阪朝日新聞の記者が、別の回想記に書いている。
「(特派されたみんなは)漢口占領で日支事変は終わると楽観していたようだ。それが第二次世界大戦まで拡大しようとは夢にも思っていなかった」
ただ、田畑が特派員として発信したことが確認できる記事を探して当時の紙面を見ていったが、この稿を書いている段階では特定できなかった。
田畑自身は、戦後になっても戦場特派の時の話をほとんど残していない。今年6月にインタビューした田畑の長男・和宏氏も、「中国に行ったとか、従軍したとか、一回も聞いたことがなかった」と語っていた。
武漢作戦は11月には終了。田畑は11月19日に帰社した。
翌1939年(昭和14)3月17日、田畑は政治部の次長待遇となる。すでに後輩たちが先に次長になっていた。40年(昭和15)8月8日には部長待遇。10月12日には論説委員も兼務するようになった。そして42年(昭和17)6月17日には政治経済部長に(組織が変わっていた)。2年後輩で戦後に社長となる長谷部忠(ただす)との部長2人の体制だった。
「運動(スポーツ)」が、戦闘力向上のための鍛錬になってしまったなか、田畑には、もう一足のわらじ=朝日新聞社の仕事に専念させようと、次々にポストに就かせた様子がうかがえる。単に歳まわりがそうだったからではない。後年、田畑の死去を受けて後輩記者が社内報に書いた追悼文には、こうある。
「あまりこまめに記事を書く方ではなかったが、当時一緒に政友会を担当しておった長谷部忠さんをよく助け、広く集められた情報を長谷部さんに伝え、記事は長谷部さんが書くというよいコンビであった。(中略)とうとう次長にはならなかった(「待遇」にはなっていた)。しかし、昭和17年、戦局が厳しさを加えつつあったとき、一足飛びに政治経済部長に就任した。長谷部さんがすでに政治経済部長であったので、部長二人制となった。これは長谷部さんの希望で、重大な局面に向かいつつある情勢に備え、社外に幅広い接触のある田畑さんに協力を求められてのことであったと思われる」
そして42年(昭和17)年8月26日、長谷部が編輯局(へんしゅうきょく)勤務となって部長を外れたことで、田畑の一人部長となる。
1943年1月1日の朝日新聞に、朝日新聞記者出身の衆議院議員、中野正剛の「戦時宰相論」が掲載された。新聞がすでに読者に配られていたか、配られつつあったかという段階で、東条英機首相が読んで激怒し、発売禁止を命じた。
中野の論考掲載は、政治経済部の次長が部会で新年企画として提案した。田畑部長が同意し、その次長が執筆依頼をした。掲載数日前に情報局の事前検閲も一字一句の訂正もなくパスしていた。
田畑と当時の主筆だった緒方竹虎が、この発禁について何と話したかの記録は無い。
しかし、戦後のジャーナリズム研究誌に、中野に原稿を依頼した次長が、緒方の言葉を記している。
東条と対立していた中野は、倒閣を図ったとして、この年の10月検挙された。憲兵隊に移送後、26日に釈放。中野は、同夜、自刃した。緒方は27日の午後、政治経済部に珍しく興奮して現れ、「東条のような奴は縛り首にあうがいい」と吐き捨てるように言った、と。
当時の「朝日社報」は、どんどん戦争遂行への言葉で埋まっていった。本音では戦争に抵抗していた社員たちも、また親族や同僚が戦地に行っている社員たちも、様々な行事の都度、日の丸と社旗を並べて掲揚した壁に向かって万歳三唱をした。
社員は戦地に赴くだけでなく、軍務に就いて、社の内外で活動させられることもあった。
戦争末期になると、朝日新聞社東京本社内の軍務適齢者は月に数回、隣にあった日劇の前に集合して近くの日比谷公園に向かい、1時間半ほど軍事教練をさせられた。その教官役とされた社員は、軍服を着て刀を吊って指導した。他に下士官の資格を持った助教がついた。そして教練の責任者は在郷軍人朝日分会長だった。朝日新聞の中に、「軍」がすっかり入り込んでいた。
教練が終わると、教官役の社員は、軍服を着たまま取材先の記者クラブへ走った。少尉の階級章を付けているから、取材先で出会う「上官」には敬礼をしなければならなかった。
そうした日々を、当時の政治経済部員で、戦後に、「戦時の統制」をテーマにした朝日新聞社の歴史を編修した熊倉正弥氏が、『言論統制下の記者』と題して出版した本の中に書いている。
その熊倉氏が田畑の印象的な発言を記録している。
政経部には長谷部忠、田畑政治の二人の部長がいた。(中略)田畑は性急で開放的な性格である。行動的で顔が広かったから、多くの情報をもっていた。昭和二十年の一月か二月のことだったと思う。議事堂と道路をへだてて木造バラック式の建物があり、各新聞社が一室ずつそこへ入っていた(中略)その一階の朝日の部屋に、ある夕方、十人ほどの部員がいた時に、田畑はこう言った。彼は声が大きい。
「戦争をやめるにしても、それは日米間の調停をソ連が引き受けるか否かにかかっている。政府も努力しているんだが、特使の派遣を向こうが受けつけないらしいんで、むずかしい情勢だ。小磯内閣には軍の強硬派を押さえつけて終戦にもってゆく力はない。これの出来る者はいないんだ。では、だれにそれが出来るかというと、陛下の御信任の特にあつい人、それは鈴木貫太郎だが、その鈴木を首相にして、機を見て、陛下の思し召しということで軍を押さえて終戦にもっていくしか道はない」
(中略)こういう話はめったにするものでもなく、また聞けるものでもなかった。二、三人の間のひそひそ話ならば別だが、こういう開放的な場で聞いたので私はびっくりした。田畑はそれだけ政経部員を信頼していたのだろうし、またこういう重要な基本問題はみなにのみこませておく必要を感じていたのかもしれない。(中略)二月末に私は再度の召集をうけたが、その軍隊の勤務中にも心の底には右の図式が生きていて、気持ちの整理の上でも、大局を考える上でも非常に役立った。私にとって先輩、指導者の言葉がこれほど有益だったことはない。
少し時を戻る。
緒方竹虎は1943年(昭和18)12月に主筆制廃止にともない副社長となる。簡単に言えば社の権力闘争に敗れたものだ。続く44年(昭和19)年7月、緒方は退社し、小磯内閣で国務大臣・情報局総裁となる。
入社以来、政治部の先輩後輩として緒方とつながりが深かった田畑は、退社した緒方との接触は持ち続けていたはずだ。そして45年(昭和20)3月15日、田畑は編輯局次長となる。その後4月10日から5月1日は、長谷部の病気で、政治部長役も兼ねた。
破滅的な戦況、そして社内も分裂した中で、田畑は敗戦を迎える。
次回は、敗戦直後、言論機関としての戦争責任から幹部の総退陣運動にたずさわった田畑が、1年5カ月後、新生経営陣への参加を求められ、戦後の新聞復興などに尽力した日々を紹介します。
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