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阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑政治と戦争

「河童のまーちゃん」が水泳の道を断たれて

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

戦場での体験は語らず

 田畑自身は、戦後になっても戦場特派の時の話をほとんど残していない。今年6月にインタビューした田畑の長男・和宏氏も、「中国に行ったとか、従軍したとか、一回も聞いたことがなかった」と語っていた。

 武漢作戦は11月には終了。田畑は11月19日に帰社した。

「いだてん」田畑政治拡大長谷部忠(1901~81)。朝日新聞の政治経済部長、編輯局次長から、敗戦後に役員が一斉に辞任したあと、社員から選ばれた6人の取締役の1人となり、互選で会長に。そして49年に制度変更で社長となり、51年に退任した=1939年(昭和14)の朝日新聞社員写真帳面から

 翌1939年(昭和14)3月17日、田畑は政治部の次長待遇となる。すでに後輩たちが先に次長になっていた。40年(昭和15)8月8日には部長待遇。10月12日には論説委員も兼務するようになった。そして42年(昭和17)6月17日には政治経済部長に(組織が変わっていた)。2年後輩で戦後に社長となる長谷部忠(ただす)との部長2人の体制だった。

 「運動(スポーツ)」が、戦闘力向上のための鍛錬になってしまったなか、田畑には、もう一足のわらじ=朝日新聞社の仕事に専念させようと、次々にポストに就かせた様子がうかがえる。単に歳まわりがそうだったからではない。後年、田畑の死去を受けて後輩記者が社内報に書いた追悼文には、こうある。

 「あまりこまめに記事を書く方ではなかったが、当時一緒に政友会を担当しておった長谷部忠さんをよく助け、広く集められた情報を長谷部さんに伝え、記事は長谷部さんが書くというよいコンビであった。(中略)とうとう次長にはならなかった(「待遇」にはなっていた)。しかし、昭和17年、戦局が厳しさを加えつつあったとき、一足飛びに政治経済部長に就任した。長谷部さんがすでに政治経済部長であったので、部長二人制となった。これは長谷部さんの希望で、重大な局面に向かいつつある情勢に備え、社外に幅広い接触のある田畑さんに協力を求められてのことであったと思われる」

 そして42年(昭和17)年8月26日、長谷部が編輯局(へんしゅうきょく)勤務となって部長を外れたことで、田畑の一人部長となる。


筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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