メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

「新御三家」の登場と『夜のヒットスタジオ』

太田省一 社会学者

 前回まで、1960年代のグループサウンズ(GS)とジャニーズのなかに「不良」と「王子様」という男性アイドルの二大タイプの原点があることを見てきた。今回は、同時期の歌謡界を代表する「御三家」の時代を振り返ったうえで、1970年代の「新御三家」の登場によって本格的なアイドル時代が始まっていく流れをたどってみたい。

「御三家」の活躍した1960年代

 日本特有のことなのかどうかはわからないが、「3」という数字でその分野を代表させるパターンは少なくない。たとえば芸能の分野、女性歌手だと「三人娘」(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)や「新三人娘」(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)などが思い浮かぶ。

 男性歌手にも、1960年代前半に登場した橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の「御三家」がいた。3人全員がデビュー年にレコード大賞新人賞受賞と『NHK紅白歌合戦』初出場を果たし、その後も長く活躍した。

 橋幸夫のデビューは1960年の「潮来(いたこ)笠」。歌謡曲のジャンルとしては股旅物、つまり渡世人が旅から旅へ流れていく姿を歌ったものである。そこだけをとれば、あまり目新しさはない。

 しかし、たとえば同じジャンルの先達である三波春夫が浪曲師の前歴を生かして重厚感たっぷりに股旅物を歌ったとすれば、橋幸夫はさらっとさわやかに「潮来笠」を歌うところに新鮮さがあった。それもそのはず、デビュー時点の橋はまだ17歳だった。

 「潮来笠」のヒットによって、橋幸夫は瞬く間にスター歌手の仲間入りを果たす。さらに1962年には、同じ作曲家・吉田正門下の女優・吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」が記録的な大ヒットとなり、日本レコード大賞を受賞。その4年後の1966年には当時史上初となる2度目の日本レコード大賞を「霧氷」で獲得した。

舟木一夫さん拡大デビュー翌年の舟木一夫さん=1964年
 舟木一夫のデビューは1963年。デビュー曲である「高校三年生」がいきなり大ヒットした。「舟木一夫」は同曲の作曲者であり彼の師匠でもある遠藤実による命名だが、これは当初遠藤実に師事していた橋幸夫のために用意された芸名であった(長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』現代教養文庫、178-179頁)。

 舟木一夫は、多くのひとが特別な郷愁を抱く学生時代を歌う“青春歌謡”の歌い手として名を馳せた。「高校三年生」も学生服で歌った。このとき舟木は18歳。ほんのわずかな差だが、デビュー時点で彼は高校を卒業していた。つまり、学生服はあくまで“衣装”であり、「高校三年生」以降も「修学旅行」「学園広場」など学園ソングを舟木は歌い続けた。

 そして西郷輝彦は、1964年に「君だけを」でデビュー。17歳のときだった。彼もまた、この曲のヒットによってあっという間にスターダムにのし上がる。

 西郷の楽曲には情熱的なものが多く、歌う際のアクションが見どころのひとつだった。その代表曲は1966年発売の「星のフラメンコ」で、フラメンコ風のアレンジに合わせて「好きなん~だっけど~」と歌って自ら手拍子を打つ振り付けが大流行した。いまの感覚だと特別派手な動きではないが、歌手は直立不動で歌うのが当たり前の当時にあってはとても新鮮だったのである。

 こうして、それぞれ路線も異なる橋、舟木、西郷の3人は、「御三家」として1960年代を代表する流行歌手になっていく。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

太田省一の記事

もっと見る