2019年10月07日
前回まで、1960年代のグループサウンズ(GS)とジャニーズのなかに「不良」と「王子様」という男性アイドルの二大タイプの原点があることを見てきた。今回は、同時期の歌謡界を代表する「御三家」の時代を振り返ったうえで、1970年代の「新御三家」の登場によって本格的なアイドル時代が始まっていく流れをたどってみたい。
日本特有のことなのかどうかはわからないが、「3」という数字でその分野を代表させるパターンは少なくない。たとえば芸能の分野、女性歌手だと「三人娘」(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)や「新三人娘」(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)などが思い浮かぶ。
男性歌手にも、1960年代前半に登場した橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の「御三家」がいた。3人全員がデビュー年にレコード大賞新人賞受賞と『NHK紅白歌合戦』初出場を果たし、その後も長く活躍した。
橋幸夫のデビューは1960年の「潮来(いたこ)笠」。歌謡曲のジャンルとしては股旅物、つまり渡世人が旅から旅へ流れていく姿を歌ったものである。そこだけをとれば、あまり目新しさはない。
しかし、たとえば同じジャンルの先達である三波春夫が浪曲師の前歴を生かして重厚感たっぷりに股旅物を歌ったとすれば、橋幸夫はさらっとさわやかに「潮来笠」を歌うところに新鮮さがあった。それもそのはず、デビュー時点の橋はまだ17歳だった。
「潮来笠」のヒットによって、橋幸夫は瞬く間にスター歌手の仲間入りを果たす。さらに1962年には、同じ作曲家・吉田正門下の女優・吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」が記録的な大ヒットとなり、日本レコード大賞を受賞。その4年後の1966年には当時史上初となる2度目の日本レコード大賞を「霧氷」で獲得した。
舟木一夫は、多くのひとが特別な郷愁を抱く学生時代を歌う“青春歌謡”の歌い手として名を馳せた。「高校三年生」も学生服で歌った。このとき舟木は18歳。ほんのわずかな差だが、デビュー時点で彼は高校を卒業していた。つまり、学生服はあくまで“衣装”であり、「高校三年生」以降も「修学旅行」「学園広場」など学園ソングを舟木は歌い続けた。
そして西郷輝彦は、1964年に「君だけを」でデビュー。17歳のときだった。彼もまた、この曲のヒットによってあっという間にスターダムにのし上がる。
西郷の楽曲には情熱的なものが多く、歌う際のアクションが見どころのひとつだった。その代表曲は1966年発売の「星のフラメンコ」で、フラメンコ風のアレンジに合わせて「好きなん~だっけど~」と歌って自ら手拍子を打つ振り付けが大流行した。いまの感覚だと特別派手な動きではないが、歌手は直立不動で歌うのが当たり前の当時にあってはとても新鮮だったのである。
こうして、それぞれ路線も異なる橋、舟木、西郷の3人は、「御三家」として1960年代を代表する流行歌手になっていく。
さて、ここで考えてみたいのは、「御三家」はアイドル歌手か?ということである。
確かにアイドル歌手と言えば、同世代の異性に熱狂的に支持される若手歌手を思い浮かべるひとは少なくないだろう。その場合、年齢がアイドル歌手か否かを判断する基準になっている。その意味では、全員が10代でデビューした「御三家」はアイドル歌手の条件を満たす。3人ともに同世代のファンの青春を彩ったアイドル歌手ということになる。
しかしこの連載の考え方に照らせば、「御三家」は「ヤング」ではあっても、成長のプロセスを見せることに重きを置いた「アイドル」ではなかった。
第1回(「ビートルズからGSへ――ジャニーズの好敵手登場」)でも述べたが、現在私たちが「アイドル」と呼ぶのは、単なる年齢の問題ではなく、努力し成長するプロセスを見せる存在に対してである。たとえば、平成を代表するアイドルであるSMAPなどは、年齢の壁を越えてアイドルが存在し得るということを示した好例と言えるだろう。
すなわち、ある面では未熟ということでもあるが、それ以上に成長の余地を残した未完成さの魅力が勝る存在であり、それに伴いそれぞれの素の部分の魅力が重要になる存在。それが私たちの呼ぶアイドルである。その意味において「御三家」は、厳密にはアイドルとは言い難い。
そうした意味におけるアイドルが登場するようになったのは、1970年代のことである。
その際、テレビの果たした役割は大きかった。一般人の少年少女が歌手デビューするに至るまでの成長のプロセスを逐一見せたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系、1971年放送開始)は、
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