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阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑政治の敗戦直後

戦争への痛切な責任と新たな出発

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

 NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治( 1898~1984 ) 。戦争では、水泳の道を断たれたばかりか、記者としても真実を伝えられなくなっていた。10月6日の放送では日米開戦のシーンで、阿部サダヲ演じる⽥畑が、緒⽅⽵⻁( リリー・フランキー) に「ウソでも喜べ」と促されて、憮然( ぶぜん) とした顔で万歳する場面があった。では、敗戦後、実際の田畑は朝日新聞社の中で、どんな活動をしていったのだろうか。朝日新聞の社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、ドラマでは描かれない、敗戦直後の田畑の姿を追う。

1945年10月、田畑の笑顔の写真

田畑政治1945年10月に撮影された〈〝新しい朝日〟を祝ってショウチュウの乾杯〉の写真。朝日新聞社内報「朝日人」の67年(昭和42)10月号に掲載された

 〈昭和20年10月23日夜 〝新しい朝日〟を祝ってショウチュウの乾杯〉

 そう説明を付けた一枚の写真が、朝日新聞の社内報「朝日人」の1967年(昭和42)10月号に載っている。

 これに田畑政治が写っているようだ。

 前列真ん中の背広の人物の左側、白シャツに白っぽいズボンで、手にコップを持ち、笑っている姿である。「朝日人」には、写真とともに「乾杯」の場面が描写されている。

 みんな戦争中の栄養失調で痩せてはいるが、カストリ焼酎のグラスをあげて意気軒昂たるものである。……(中略)……全首脳は退陣せよと、東京、大阪、西部の全社員が一週間にわたって戦い続けてきた要求が全面的にいれられた時である。いわば新しく生れ変った新生朝日の誕生を祝う勝名乗りであり……(中略)……顔ぶれは左から右へ加藤祇文、その後ろに佐々弘雄、手前の白シャツは岡一郎、そのカゲにヒタイが見えるのは本多助太郎? 右へ田畑政治、聴濤(きくなみ)克巳、白川威海、香月保、遠山孝、福井文雄。二列目は(田畑の後方に)長谷川健一、その右が茂貫正人、その後ろに江幡清……(後略)

 田畑政治の笑っている写真は、そう多くないのではないか。

 ということもあって、この写真が田畑であることを即座には断定できなかったが、しかし、名前が挙げられている人々は皆、複数の社員写真帳で照合確認できたし、田畑自身も左右の眉毛の特徴は一致しているようだ。なにより、この写真と思い出を寄せているのは、一緒に写っている茂貫氏である。

 この群像は、文章にあるように、ある闘争の仲間たちだった。しかし労働組合ではない。

 人々の当時の肩書は、加藤が東京・東亜部長、佐々が論説主幹、岡が西部・整理部長、本多が東京・通信部長、田畑は東京・編輯(へんしゅう)局次長、聴濤は論説委員でこの時は社員代表委員会委員長になっていた。白川は取締役で西部・編輯局長、香月は大阪・編輯局長、遠山は東京・写真部長、福井は前の東京・欧米部長……こうした局長、部長たちが社員たちと共に運動していたのは、戦争時に首脳陣だった者たちの退陣要求だった。

戦争責任を痛切に自覚

田畑政治1945年(昭和20)10月の東京・新宿。空襲に焼かれ廃墟が目につく中にも、露店が軒を並べ、商店街には復興の兆しが。よしず張りの「新宿マーケット」には日用品が並べられ、飛ぶように売れていた

 戦争と新聞との関係では「軍部の圧力に屈した」「言論の自由が奪われた」と振り返る言説がある。

 しかし敗戦直後、朝日新聞の人たちは、みずからの戦争責任を痛切に自覚していた。

 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』にも収めているが、戦争中に編輯局長だった美土路昌一(みどろ・ますいち)は、戦後の社内での回顧談で、こう自己批判している。

 非常の時に、全新聞記者が平時において大声叱呼(たいせいしっこ)した言論自由の烽火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんが為の売節の罪を見逃してはならぬ

 生きんがため、というのは、新聞社と、販売、製紙、広告、輸送などなどの業者たちが構成していた巨大な新聞事業共同体を存続させるため、ということでもある。社を辞める直前までは主筆だった緒方竹虎も、こう記している。

 新聞社の収入が大きくなればなる程、資本主義の弱体を暴露するのである。新聞資本主義は発禁や軍官の目を極度に懼(おそ)れる。(中略)いわゆる新体制運動に対し日支事変に対し三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏(べんそ)が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したという以外に何物もない
(嘉治隆一『緒方竹虎』所収の「戦争犯罪裁判に対する準備資料・昭和21年1月」)

 緒方や美土路と共に仕事をしていた者たちもまた、こうした責任感を持っていた。1945年(昭和20)9月から10月にかけて、朝日新聞社の戦争責任をどうとるか、社内をどう刷新するかの運動を展開した。

田畑政治細川隆元=1944年(昭和19)の朝日新聞社員写真帳から
 同年10月15日、村山長挙社長は、千葉雄次郎・編輯総長と細川隆元・東京編輯局長らの更迭を含む人事異動を提示した。細川は後任人事に強い懸念を表明した。香月保と白川威海は留任を提示されたが、2人もそれを断った。

 この人事異動案が示されたのは、千葉、細川、香月、白川の4人で戦後の新聞のあり方や人事の話し合いを進め、社長に進言しようとしていた矢先のことだった。多くの重役陣が居座る社長案に対して、編輯局幹部、編輯の社員たち、そして全社に反対の声が広がった。

 16日夜、東京・築地のヤミ料理屋に、千葉、細川、香月、白川、論説主幹だった嘉治隆一と佐々弘雄の6人が集まった。騒動の善後策を協議するためだった。

 のちに細川が書いた『実録・朝日新聞』によると、この場に、田畑政治・編輯局次長が「鞭撻(べんたつ)係りのような格好でこの席に加わって」いた。「鞭撻係り」とは、社員たちがこの6人を励まし激励している、その代表として、といった意味だろうか。

 17日、千葉たちは前夜の6人の連名で村山社長に面会を求め、「社長、会長の辞任、全重役と編輯局長、論説主幹の退陣」を申し入れた。

重役の退陣、新しい一歩踏み出す

 それから重役陣と社員たちとの攻防があり、さらに社の顧問となっていた緒方竹虎、美土路昌一が、取りまとめ役として重役会に出席した。

 そして迎えた10月23日、村山社長は千葉たち6人に重役会で決定した覚書を示した。残務整理役の3人を残して重役は退陣し、村山社長と上野精一会長は、新たに設けられる栄誉的地位の「社主」となる、というものだった。

 23日夜の「祝勝会」を紹介した「朝日人」の記事では、茂貫氏がこんなエピソードも記している。

 この写真撮影のあと、白川さんから東西マジャク師の決戦を挑まれ、田畑さんとH氏を介添に初手合わせをした。明ければ田畑さんは大阪本社の社員大会に経過報告のため出張

 24日朝刊は「朝日新聞革新 戦争責任明確化」の記事で、社長会長以下重役総辞職を報じた。

田畑政治1945年(昭和20)11月7日の朝日新聞に掲載した宣言「国民と共に立たん」

 11月5日の臨時株主総会で、社長、会長らが辞任。残務処理で代表取締役となった野村秀雄は翌6日の大阪本社管内支局長会議での訓示で、編輯局次長だった田畑政治、政治経済部長だった高野信、写真部長だった遠山孝、欧米部次長だった守山義雄らの名を挙げ、「一部員として、他の若い諸君と共に第一線に活躍することにあいなったのであります」と説明した。

 11月7日朝刊には「宣言 国民と共に起たん」の社告を掲載した。

 重役総辞職は「真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず(中略)国民をして事態の進展に無知なるまゝ今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがため」であり、「朝日新聞はあくまで国民の機関たることをこゝに宣言するものである」とした。

 この宣言文は10月23日、当時報道第一部長だった長谷部忠が、同次長の森恭三に起草させた。社内には、戦争責任の自覚とともに、新しい時代への高揚感もあふれていた。

 次回は、田畑が新体制の中で経営陣に加わり、社を辞めるまでの姿を追います。