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阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑政治の敗戦直後

戦争への痛切な責任と新たな出発

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

戦争責任を痛切に自覚

田畑政治拡大1945年(昭和20)10月の東京・新宿。空襲に焼かれ廃墟が目につく中にも、露店が軒を並べ、商店街には復興の兆しが。よしず張りの「新宿マーケット」には日用品が並べられ、飛ぶように売れていた

 戦争と新聞との関係では「軍部の圧力に屈した」「言論の自由が奪われた」と振り返る言説がある。

 しかし敗戦直後、朝日新聞の人たちは、みずからの戦争責任を痛切に自覚していた。

 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』にも収めているが、戦争中に編輯局長だった美土路昌一(みどろ・ますいち)は、戦後の社内での回顧談で、こう自己批判している。

 非常の時に、全新聞記者が平時において大声叱呼(たいせいしっこ)した言論自由の烽火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんが為の売節の罪を見逃してはならぬ

 生きんがため、というのは、新聞社と、販売、製紙、広告、輸送などなどの業者たちが構成していた巨大な新聞事業共同体を存続させるため、ということでもある。社を辞める直前までは主筆だった緒方竹虎も、こう記している。

 新聞社の収入が大きくなればなる程、資本主義の弱体を暴露するのである。新聞資本主義は発禁や軍官の目を極度に懼(おそ)れる。(中略)いわゆる新体制運動に対し日支事変に対し三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏(べんそ)が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したという以外に何物もない
(嘉治隆一『緒方竹虎』所収の「戦争犯罪裁判に対する準備資料・昭和21年1月」)

 緒方や美土路と共に仕事をしていた者たちもまた、こうした責任感を持っていた。1945年(昭和20)9月から10月にかけて、朝日新聞社の戦争責任をどうとるか、社内をどう刷新するかの運動を展開した。

田畑政治拡大細川隆元=1944年(昭和19)の朝日新聞社員写真帳から
 同年10月15日、村山長挙社長は、千葉雄次郎・編輯総長と細川隆元・東京編輯局長らの更迭を含む人事異動を提示した。細川は後任人事に強い懸念を表明した。香月保と白川威海は留任を提示されたが、2人もそれを断った。

 この人事異動案が示されたのは、千葉、細川、香月、白川の4人で戦後の新聞のあり方や人事の話し合いを進め、社長に進言しようとしていた矢先のことだった。多くの重役陣が居座る社長案に対して、編輯局幹部、編輯の社員たち、そして全社に反対の声が広がった。

 16日夜、東京・築地のヤミ料理屋に、千葉、細川、香月、白川、論説主幹だった嘉治隆一と佐々弘雄の6人が集まった。騒動の善後策を協議するためだった。

 のちに細川が書いた『実録・朝日新聞』によると、この場に、田畑政治・編輯局次長が「鞭撻(べんたつ)係りのような格好でこの席に加わって」いた。「鞭撻係り」とは、社員たちがこの6人を励まし激励している、その代表として、といった意味だろうか。

 17日、千葉たちは前夜の6人の連名で村山社長に面会を求め、「社長、会長の辞任、全重役と編輯局長、論説主幹の退陣」を申し入れた。

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

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