メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑政治の敗戦直後

戦争への痛切な責任と新たな出発

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

重役の退陣、新しい一歩踏み出す

 それから重役陣と社員たちとの攻防があり、さらに社の顧問となっていた緒方竹虎、美土路昌一が、取りまとめ役として重役会に出席した。

 そして迎えた10月23日、村山社長は千葉たち6人に重役会で決定した覚書を示した。残務整理役の3人を残して重役は退陣し、村山社長と上野精一会長は、新たに設けられる栄誉的地位の「社主」となる、というものだった。

 23日夜の「祝勝会」を紹介した「朝日人」の記事では、茂貫氏がこんなエピソードも記している。

 この写真撮影のあと、白川さんから東西マジャク師の決戦を挑まれ、田畑さんとH氏を介添に初手合わせをした。明ければ田畑さんは大阪本社の社員大会に経過報告のため出張

 24日朝刊は「朝日新聞革新 戦争責任明確化」の記事で、社長会長以下重役総辞職を報じた。

田畑政治拡大1945年(昭和20)11月7日の朝日新聞に掲載した宣言「国民と共に立たん」

 11月5日の臨時株主総会で、社長、会長らが辞任。残務処理で代表取締役となった野村秀雄は翌6日の大阪本社管内支局長会議での訓示で、編輯局次長だった田畑政治、政治経済部長だった高野信、写真部長だった遠山孝、欧米部次長だった守山義雄らの名を挙げ、「一部員として、他の若い諸君と共に第一線に活躍することにあいなったのであります」と説明した。

 11月7日朝刊には「宣言 国民と共に起たん」の社告を掲載した。

 重役総辞職は「真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず(中略)国民をして事態の進展に無知なるまゝ今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがため」であり、「朝日新聞はあくまで国民の機関たることをこゝに宣言するものである」とした。

 この宣言文は10月23日、当時報道第一部長だった長谷部忠が、同次長の森恭三に起草させた。社内には、戦争責任の自覚とともに、新しい時代への高揚感もあふれていた。

 次回は、田畑が新体制の中で経営陣に加わり、社を辞めるまでの姿を追います。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

前田浩次の記事

もっと見る