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『いだてん』田畑政治が朝日新聞を去るまで

敗戦後、新聞事業の建て直し。緒方竹虎との結びつき

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

 NHK大河ドラマ『いだてん』は、ラグビーW杯準々決勝・日本対南アフリカ戦の中継で順延され、10月27日から、1964年の東京オリンピック招致に邁進する田畑政治(1898~1984) を描いていく。そこでは「朝日新聞社の田畑」は出てこないが、実際の田畑は、1952年に退社するまで、社の経営陣として戦後の事業復興に取り組んだ。朝日新聞の社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、その6年余をたどる。

政治部の一記者として再スタート

いだてん田畑拡大1945年秋の東京。外堀にかかる数寄屋橋、その向こうに朝日新聞社が見える

 戦争責任で経営陣の大半が辞めた1945年(昭和20)11月。田畑政治は1日付で東京編輯(へんしゅう)局次長から、無役の政治部記者になった。「降格人事」といった性格のものではなく、ほかにも無役となった記者たちと同様に、その時点での田畑なりの責任の取り方だったのだろう。

  当時、一切をリセットして出直すべきだという意見の社員たちもいた。敗戦の日に退社した武野武治(むのたけじ)のような社員もいた。

 しかし、経営陣の責任追及をしたうえで新しい朝日をつくろうとした大半の社員たちにとっては、新聞社、販売店、広告、輸送、製紙などからなる新聞事業共同体をなくすという考えは無かった。

 また、重役退陣運動の時は「(戦争)責任は現全部長に及び、その地位を去るべきものなり」と主張していた編輯局部長会の人々も、その多くが再び部長職になった。

 一記者時代の田畑政治の仕事ぶりをうかがうことができる記事は、特筆できるものを挙げることができない。なにより当時、新聞は1枚表裏の2ページしかなかった。

 一方で、新聞社内での田畑の動きについては、細川隆元の回想がある。

 細川、香月保、佐々弘雄、嘉治隆一の4人は、重役ではなかったので退陣といってもそのポストを退いただけで朝日新聞には居残ることになり、細川は1947年(昭和22)の春までは参与として在社した。

 参与室には社外から緒方竹虎の秘書役の浅村成功、高橋円三郎、佐藤弥(いずれも元朝日記者)などの悪童どもが毎日のように出入りし、社内からは田畑忠治(東京・業務局長)、田畑政治、木村束(東京・厚生本部長)、河合勇(東京・印刷局長)、壁谷祐之(元・政治経済部長)などの勇ましい連中が集まって、ヤミ酒を飲んだり碁を打ったり、浮世談義に花を咲かせたりして、まったく社内のゲテモノ集合所、梁山泊の観を呈した(細川『朝日新聞外史』)

 新しい経営陣が誕生したのは、1946年(昭和21)4月16日だった。社内公選で6人の取締役が選ばれ、田畑の後に局次長となっていた長谷部忠(ただす)がその一人となった。

 この取締役たちが翌47年(昭和22)3月15日に田畑を新取締役に招く。政治部時代の長谷部と田畑の関係については、本連載の中ですでに触れたが、長谷部は取締役となってからも、一記者である田畑と、よく話し合っていたようだ。直接の資料は社史編修センターには無いが、有山輝雄氏の研究論文「戦後新聞における資本・経営・編集――占領期メディア史研究」が紹介している長谷部の日記の中にも、そうしたことをうかがわせる記述が何度か出てくる。

 参与室への出入りといい、田畑は一記者とはいえ、戦後の「新しい朝日」の活動に深く関わっていた。取締役選任も、社内では違和感なく受け止められた。

 同年6月23日、長谷部は取締役会長になる。翌24日、取締役会の諮問機関として審議室を設置し、田畑はその審議室員となり、2日後の26日、田畑は東京本社代表となる。

 翌々年の1949年(昭和24)11月25日、朝日新聞社は社長制を敷き、東京と大阪の代表制をやめて、長谷部が社長となり、田畑は常務取締役となる。

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

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