敗戦後、新聞事業の建て直し。緒方竹虎との結びつき
2019年10月19日
NHK大河ドラマ『いだてん』は、ラグビーW杯準々決勝・日本対南アフリカ戦の中継で順延され、10月27日から、1964年の東京オリンピック招致に邁進する田畑政治(1898~1984) を描いていく。そこでは「朝日新聞社の田畑」は出てこないが、実際の田畑は、1952年に退社するまで、社の経営陣として戦後の事業復興に取り組んだ。朝日新聞の社史編修センター長、前田浩次が、史料をもとに、その6年余をたどる。
戦争責任で経営陣の大半が辞めた1945年(昭和20)11月。田畑政治は1日付で東京編輯(へんしゅう)局次長から、無役の政治部記者になった。「降格人事」といった性格のものではなく、ほかにも無役となった記者たちと同様に、その時点での田畑なりの責任の取り方だったのだろう。
当時、一切をリセットして出直すべきだという意見の社員たちもいた。敗戦の日に退社した武野武治(むのたけじ)のような社員もいた。
しかし、経営陣の責任追及をしたうえで新しい朝日をつくろうとした大半の社員たちにとっては、新聞社、販売店、広告、輸送、製紙などからなる新聞事業共同体をなくすという考えは無かった。
また、重役退陣運動の時は「(戦争)責任は現全部長に及び、その地位を去るべきものなり」と主張していた編輯局部長会の人々も、その多くが再び部長職になった。
一記者時代の田畑政治の仕事ぶりをうかがうことができる記事は、特筆できるものを挙げることができない。なにより当時、新聞は1枚表裏の2ページしかなかった。
一方で、新聞社内での田畑の動きについては、細川隆元の回想がある。
細川、香月保、佐々弘雄、嘉治隆一の4人は、重役ではなかったので退陣といってもそのポストを退いただけで朝日新聞には居残ることになり、細川は1947年(昭和22)の春までは参与として在社した。
参与室には社外から緒方竹虎の秘書役の浅村成功、高橋円三郎、佐藤弥(いずれも元朝日記者)などの悪童どもが毎日のように出入りし、社内からは田畑忠治(東京・業務局長)、田畑政治、木村束(東京・厚生本部長)、河合勇(東京・印刷局長)、壁谷祐之(元・政治経済部長)などの勇ましい連中が集まって、ヤミ酒を飲んだり碁を打ったり、浮世談義に花を咲かせたりして、まったく社内のゲテモノ集合所、梁山泊の観を呈した(細川『朝日新聞外史』)
新しい経営陣が誕生したのは、1946年(昭和21)4月16日だった。社内公選で6人の取締役が選ばれ、田畑の後に局次長となっていた長谷部忠(ただす)がその一人となった。
この取締役たちが翌47年(昭和22)3月15日に田畑を新取締役に招く。政治部時代の長谷部と田畑の関係については、本連載の中ですでに触れたが、長谷部は取締役となってからも、一記者である田畑と、よく話し合っていたようだ。直接の資料は社史編修センターには無いが、有山輝雄氏の研究論文「戦後新聞における資本・経営・編集――占領期メディア史研究」が紹介している長谷部の日記の中にも、そうしたことをうかがわせる記述が何度か出てくる。
参与室への出入りといい、田畑は一記者とはいえ、戦後の「新しい朝日」の活動に深く関わっていた。取締役選任も、社内では違和感なく受け止められた。
同年6月23日、長谷部は取締役会長になる。翌24日、取締役会の諮問機関として審議室を設置し、田畑はその審議室員となり、2日後の26日、田畑は東京本社代表となる。
翌々年の1949年(昭和24)11月25日、朝日新聞社は社長制を敷き、東京と大阪の代表制をやめて、長谷部が社長となり、田畑は常務取締役となる。
当時の社報には、この時期の田畑の活動が記載されている。東京代表としての会合参加やあいさつ、発足した組合との交渉。
ただ、言うまでもなく、そうした、表に記録された活動だけでなかった。
1946年(昭和21)の新年早々、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は公職追放令を発表した。
朝日新聞の戦争当時の幹部たちも追放者に指定される可能性が高かったことは、「新しい朝日」の経営陣選びにも大きな影響があった。
そして選ばれた長谷部は、GHQが、朝日新聞の社説や論調、朝日新聞労組の行動を、追及・攻撃してくることから朝日新聞を守ることに忙殺されるようになった。
GHQの民間情報教育局新聞課のインボデンは「朝日をつぶすことは、なんら日本のためにおしむべきことではない」と批判していた(「日本新聞協会十年史」)。
かつて1918年(大正7)に、当時の大阪朝日新聞が、記事の表現を咎(とが)められて政府から廃刊を求める裁判を起こされた「白虹事件」があった。その時と同様の朝日新聞存続の危機に、長谷部はGHQや政府に、弁明し、説明し、嘆願をする日々を送った。
田畑政治が東京代表となったのは、長谷部のサポートをし、新聞経営の実務を担うためだった。組合運動への対応、ページ数拡大、戦中から他紙との共同となっていた販売・宅配を専売に戻すための準備、それらの結果到来するだろう激しい新聞販売競争への取り組み。
常務取締役の時には、さらに「放送」についての仕事にも取り組んだようだ。長男・和宏氏の証言によれば、東海道本線を特急「つばめ」が走っていたころ、それは1950年(昭和25)1月以降のことなのだが、田畑は大阪での「朝日放送」立ち上げのためか、毎週のように「つばめ」で東京と大阪を往復していたという。
朝日放送成立時期に朝日新聞社が出した人材の名前としては、田畑は出てこないが、社史編修センターに残る初期の電波政策史のメモには、1948年(昭和23)10月に、先の審議室内に「朝日放送創立準備委員会」を設けて対外活動を開始したことが記されている。また、放送局には社員が朝日を辞めてではなく、出向の形で行くことについても、田畑取締役に相談して認めてもらったという記述もあった。
さて、田畑とも長谷部とも関係が深く、それ以上に、戦中戦後の朝日新聞にとって大きな存在だった緒方竹虎を、田畑の戦後の活動と関連づけてみる。
田畑は入社以来、緒方竹虎に気に入られ、田畑もまた緒方に心酔していた。政治記者でありながら、ライフワークの水泳活動に注力することも認めてくれた。結婚の媒酌人だった。なにより仕事の上でも朝日新聞の硬派系記者の筆頭が緒方政治部長・編輯局長・主筆だった。その系統に、細川隆元は『朝日新聞外史』の中で、自らも含めて、関口泰、野村秀雄、香月保、白川威海、壁谷祐之、長谷部忠、田畑政治らの名を挙げている。
その緒方が、1943年(昭和18)12月27日の人事異動・機構改革で主筆ではなくなり、実権の無い副社長となった。村山長挙社長以下の大阪本社のグループと、東京本社の社会部ほかのグループとの協調による、社内の政変だった。
そして翌44年(昭和19)7月22日、緒方は小磯米内協力内閣の国務大臣兼情報局総裁となり、朝日新聞社を去った。
敗戦後の重役陣の戦争責任追及、続いて、長谷部や田畑が社の経営をつかさどったこと、これらは、43年の「政変」と関連づけた狭い視野で見れば、緒方派の巻き返しと言えるだろう。
事実、長谷部、田畑は、緒方との会合を重ね、朝日新聞の運営についてのアドバイスを受けていた。言われるがままに行動していたわけではないのだが、しかし、戦争責任運動の結果退いていた村山長挙・元社長たちは、長谷部や田畑たちの向こうに、緒方の姿を感じていただろう。
1951年(昭和26)夏、村山元社長たちの公職追放が相次いで解けた。長谷部、田畑らの執行部批判の声がわき起こる。11月30日の株主総会で、長谷部は任期を満了したとして社長を退任した。追放解除後に社主の地位に戻っていた村山と上野精一は取締役ともなり、村山は代表取締役会長となった。社長、専務、常務は当面置かないことになった。
このとき常務取締役から取締役になった田畑は、翌52年(昭和27)2月22日、取締役も辞任し、社を去った。
「いだてん」では描かれなかった田畑政治の朝日新聞社時代を4回にわたってたどってきた。次回は「史実を基にしたフィクション」としての「いだてん」で描かれたいろいろなモノ・コトが、史実ではどうだったのかについてリポートする。
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