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『いだてん』田畑政治が朝日新聞を去るまで

敗戦後、新聞事業の建て直し。緒方竹虎との結びつき

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

朝日新聞廃刊の危機に、経営実務を担う

いだてん田畑拡大多くの社務の場で、長谷部忠(奥左)と田畑政治(同右)が並ぶ姿があった=田畑家のアルバムから

 当時の社報には、この時期の田畑の活動が記載されている。東京代表としての会合参加やあいさつ、発足した組合との交渉。

 ただ、言うまでもなく、そうした、表に記録された活動だけでなかった。

 1946年(昭和21)の新年早々、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は公職追放令を発表した。

 朝日新聞の戦争当時の幹部たちも追放者に指定される可能性が高かったことは、「新しい朝日」の経営陣選びにも大きな影響があった。

 そして選ばれた長谷部は、GHQが、朝日新聞の社説や論調、朝日新聞労組の行動を、追及・攻撃してくることから朝日新聞を守ることに忙殺されるようになった。

 GHQの民間情報教育局新聞課のインボデンは「朝日をつぶすことは、なんら日本のためにおしむべきことではない」と批判していた(「日本新聞協会十年史」)。

 かつて1918年(大正7)に、当時の大阪朝日新聞が、記事の表現を咎(とが)められて政府から廃刊を求める裁判を起こされた「白虹事件」があった。その時と同様の朝日新聞存続の危機に、長谷部はGHQや政府に、弁明し、説明し、嘆願をする日々を送った。

 田畑政治が東京代表となったのは、長谷部のサポートをし、新聞経営の実務を担うためだった。組合運動への対応、ページ数拡大、戦中から他紙との共同となっていた販売・宅配を専売に戻すための準備、それらの結果到来するだろう激しい新聞販売競争への取り組み。

 常務取締役の時には、さらに「放送」についての仕事にも取り組んだようだ。長男・和宏氏の証言によれば、東海道本線を特急「つばめ」が走っていたころ、それは1950年(昭和25)1月以降のことなのだが、田畑は大阪での「朝日放送」立ち上げのためか、毎週のように「つばめ」で東京と大阪を往復していたという。

 朝日放送成立時期に朝日新聞社が出した人材の名前としては、田畑は出てこないが、社史編修センターに残る初期の電波政策史のメモには、1948年(昭和23)10月に、先の審議室内に「朝日放送創立準備委員会」を設けて対外活動を開始したことが記されている。また、放送局には社員が朝日を辞めてではなく、出向の形で行くことについても、田畑取締役に相談して認めてもらったという記述もあった。

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

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