メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

『いだてん』が描いた/描かなかった朝日新聞社

ドラマではコンパクトな田畑政治の職場も実は……

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

 NHK大河ドラマ『いだてん』の番組最後のタイトル画面には、「このドラマは、史実を基にしたフィクションです」というおことわりが入っている。実名で朝日新聞社が描かれていた回に「新聞考証」とクレジットされた社史編修センター長の前田浩次は、ドラマの制作陣が史実を調査するのに協力したのだが、ドラマとしての創作の部分を「史実とは違う」とチェックしたわけではない。ただ、視聴した人たちから、いくつかの場面や出来事について、実際にはどうだったの? とよく尋ねられる。今回から、そうした「フィクションと史実」について報告する。

ドラマに出てきた社屋は一つ、でも、実は……

いだてん田畑関東大震災前の東京朝日新聞社。左に2階建ての旧社屋が見える

 阿部サダヲが演じている朝日新聞の記者、田畑政治が入社した頃、東京朝日新聞社は、東京・銀座の瀧山町(現在の銀座6丁目)にあった。

 このビルは関東大震災で焼けたが、すぐに修理された。ドラマの田畑は、修理工事のさなかに、村山龍平社長と緒方竹虎の採用面接を受けていた。

 「いだてん」では、このビルを参考にしたセットで、東京朝日新聞社の編輯(へんしゅう)局や印刷部門を描いた。

 六角形に天板を加工した机が編輯局の中心にあり、その上にも床にも紙が散っている様子などは、まさに新聞社の風景だが、田畑が入社した時の社内は、実はもう少し広かった。ちなみにこの「六角机」、何人もが一つの机で仕事をするのに都合のいいデザインで、いまでも朝日新聞社内で使われている。

田畑より前、夏目漱石や石川啄木の姿があったのは、木造社屋

いだてん田畑1903年2月の東京朝日新聞社。夏目漱石が顔を出し、石川啄木が通っていたのは、この社屋

 東京朝日新聞社は、1888年(明治21)の創刊直後、銀座・瀧山町に木造2階建ての社屋を構え、1903年(明治36)に増築した。

 1907年(明治40)に夏目漱石が小説記者として入社し、時々の編集会議などに顔を出していたころ、そして09年(明治42)に石川啄木が校正係として入社して通勤していたのは、この木造社屋だ。

 それより前、1890年(明治23)には、東京朝日新聞は日本の新聞界で最初の輪転機をフランスから輸入して設置した。ドラマでは描かれなかったが、新聞は輪転機で大量に印刷されていた。そして販売店と仕事をする販売局、広告を扱う広告局などの社員たちもどんどん増えていた。

 1903年の増築でも手狭になり、北寄りの一帯を買収していって、20年(大正9)に建てたのが、鉄筋コンクリート4階建ての新社屋だった。

 ところが1923年(大正12)の関東大震災で、ビルの内部が燃えてしまった。実は、この4階建てのビルでも、当時の新聞発行には能力が足りないようになっていて、震災の時は設備増強や増築を実施し、または実施しようとしていた。

 いっそ別の場所に新社屋を、ということで、1927年(昭和2)に建てたのが東京・有楽町のビルだった。これが増築を重ねながら1980年(昭和55)まで朝日新聞の東京の拠点として使われた。

いだてん田畑有楽町の東京朝日新聞社。移転翌年の1928年に数寄屋橋が完成した時の撮影

 「いだてん」では社員たちの熱気を描くために、太平洋戦争に突入するまでを同じコンパクトな編輯局の中におさめたようだが、実際には新聞事業が急成長し、輪転機など装置産業も拡大していて、新聞社の環境は大きく変わっていった。

速報を支えた伝書鳩、飛行機、写真電送

いだてん田畑甲子園球場からの写真を運ぶ伝書鳩の活躍を伝える大阪朝日新聞。1927年(昭和2)8月19日大阪版の記事

 このころ、新聞社で重要な連絡手段だったのは、鳩だ。

 原稿と、のちには写真や漫画も運ぶようになった伝書鳩の小屋が、「いだてん」の社屋では編輯局外の回廊に面して設けられていた。鳩が田畑たちの間を飛ぶシーンもあった。実際には鳩小屋は屋外にあったのだが、ドラマでは伝書鳩が活用されていた時代の感じを出すために、記者たちの間近に持ってきたのだろう。

 伝書鳩の新聞社への導入は、1895年(明治28)に東京朝日新聞が東京・品川駅から瀧山町の本社へと飛ばして記事を運んだのが最初だった。その後、東京・八王子の大火の記事を送るのにも成功した。

 ただ失敗も多かったようで、一度は伝書鳩の飼育をすべて止めてしまった。改めて正式に伝書鳩を採用したのは1925年(大正14)とされる。数年後に建てられた有楽町の新しい社屋の屋上には、伝書鳩の小屋が設けられた。

いだてん田畑これは大阪朝日新聞社の鳩小屋で、1933年(昭和8)ころの様子

 もう一つ、速報にかかわるようになったのが飛行機だ。 

 役目は写真の輸送。「いだてん」では、1932年(昭和7)のロサンゼルス五輪の時に、アメリカ西海岸から船で運んできた写真を、日本の沖で飛行機によって吊り上げるエピソードが紹介された。

 この年は、満州国承認の日満議定書調印の写真を空輸していた飛行機が、日本海を横断中に遭難もしている。

 また朝日新聞は、飛行機を使った新聞輸送、郵便輸送、さらには1928年(昭和3)からは大阪と東京など数路線の旅客輸送も手がけていた。その後、そうした航空事業は国策会社に統合されてしまったが、戦争がなければ、朝日新聞の航空会社が世界を飛び回るようになっていたかもしれない。

いだてん田畑ロサンゼルス五輪の写真を日本沖で飛行機で吊り上げた

 「いだてん」では描かれなかったが、このころ、写真電送も導入された。

 1928年(昭和3)11月に昭和天皇の御大典が京都で行われた。その写真を速報するために朝日新聞はドイツ製の写真電送機を導入した。同年はアムステルダム五輪があったが、その写真電送はまだ無理だったようだ。また4年後のロサンゼルス五輪でも、写真電送は活用されていない。田畑政治との絡みがほとんど無いので、ドラマでの割愛もやむなしだが、その時代の新聞業界の史実として報告しておく。

 次回は「電話」と、ドラマでは田畑政治と結婚することになる「速記者」など、新聞記者の原稿にまつわる事柄をリポートする。