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数寄屋橋に「新聞売りのおばちゃん」がいた時代

「新聞絶やすな 目を肥やせ」、売り上げナンバーワンの街頭スタンド

松本裕喜 編集者

 きっかけは地下鉄銀座駅から上がってきた永六輔に、「永さーん、父と子シリーズ読んでいますよ」と安住正子さんが声をかけてからだったという。「ありがとう」と応えて新聞と週刊誌を買っていった永はその後「土曜ワイドラジオTokyo」(TBSラジオ)で「新聞売りのおばちゃん」を紹介。ラジオを聞いたタクシーの運転手、近くの店の板前やボーイが新聞や雑誌を買いに来るようになって、日劇前の正子さんの街頭スタンドは銀座の有名店の一つに数えられるようになった。1971年(昭和46)ごろの話である。

 永六輔との交流はその後も続いた。

 ちょうど、この真向こうがニュートーキョーなんですが、その前に新聞を売っているおばさんがいまして、このおばさんは、仲良しのガールフレンド。…
永 このあたりだって変わってるもんね。
安住 …日比谷スバル街ってあったでしょ。
永 スバル街って緑に囲まれていて…アメリカみたいな感じで…、今の原宿みたいに若者がリーゼントでさ。…
安住 スバル街はなくなっちゃったけど、アメリカンファーマシーはいまでも懐かしい。
永 あそこで久米宏がアルバイトしてたんだよ。…
安住 懐かしい。毎日新聞の上にラジオ東京が入っていた。…歌のかざぐるまなんて、ね。
永 …だめだ、ここにいると話が長くなって。(永六輔『思い出交差点 日比谷』非売品、1989年(平成元)1月)

=筆者提供拡大交流のあった永六輔さんと安住正子さん(左)=筆者提供

 安住正子さんは、1935年(昭和10)、石川県七尾市に生まれ、4歳で父を、11歳で母を亡くして上京。54年(昭和29)、新聞・雑誌の販売会社東都春陽堂に入社した。最初は東京駅に近い東京中央郵便局前、次に京成線日暮里駅のホーム、その後品川、駒込、新橋などの売店を経て、71年(昭和46)、ニュートーキョー前に来た。

 正子さんは午後の1時には売り場に立ち、地下鉄の終電が出るころ同じ東都春陽堂に勤める夫に手伝いに来てもらってスタンドをしまい自宅に帰る。それから伝票とお金の計算をして、寝るのは午前3時。翌朝9時には電話でその日の新聞・雑誌の部数を確認。家事をしてからお昼に家を出る日課である。売り上げの1割3分から1割5分が収入になる契約販売員であった。

 正子さんには1年前に「花暦」(その後「艸」と改称)で会った。女性メンバーが8割を占めるこの俳句の会で、正子さんの言動には何か力強いものがあった。通信社に勤める俳句仲間によると、数寄屋橋ニュートーキョー前の正子さんの新聞・雑誌スタンドは『週刊文春』の田中健五や花田紀凱などが発売日の夜に立ち寄り、扇谷正造なども時々のぞきに来る、マスコミでは有名なスポットだったという。

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筆者

松本裕喜

松本裕喜(まつもと・ひろき) 編集者

1949年、愛媛県生まれ。40年間勤務した三省堂では、『日本の建築明治大正昭和』(全10巻)、『都市のジャーナリズム』シリーズ、『江戸東京学事典』、『戦後史大事典』、『民間学事典』、『哲学大図鑑』、『心理学大図鑑』、『一語の辞典』シリーズ、『三省堂名歌名句辞典』などを編集。現在、俳句雑誌『艸』編集長。本を読むのが遅いのが、弱点。