「新聞絶やすな 目を肥やせ」、売り上げナンバーワンの街頭スタンド
2019年10月28日
きっかけは地下鉄銀座駅から上がってきた永六輔に、「永さーん、父と子シリーズ読んでいますよ」と安住正子さんが声をかけてからだったという。「ありがとう」と応えて新聞と週刊誌を買っていった永はその後「土曜ワイドラジオTokyo」(TBSラジオ)で「新聞売りのおばちゃん」を紹介。ラジオを聞いたタクシーの運転手、近くの店の板前やボーイが新聞や雑誌を買いに来るようになって、日劇前の正子さんの街頭スタンドは銀座の有名店の一つに数えられるようになった。1971年(昭和46)ごろの話である。
永六輔との交流はその後も続いた。
ちょうど、この真向こうがニュートーキョーなんですが、その前に新聞を売っているおばさんがいまして、このおばさんは、仲良しのガールフレンド。…
永 このあたりだって変わってるもんね。
安住 …日比谷スバル街ってあったでしょ。
永 スバル街って緑に囲まれていて…アメリカみたいな感じで…、今の原宿みたいに若者がリーゼントでさ。…
安住 スバル街はなくなっちゃったけど、アメリカンファーマシーはいまでも懐かしい。
永 あそこで久米宏がアルバイトしてたんだよ。…
安住 懐かしい。毎日新聞の上にラジオ東京が入っていた。…歌のかざぐるまなんて、ね。
永 …だめだ、ここにいると話が長くなって。(永六輔『思い出交差点 日比谷』非売品、1989年(平成元)1月)
安住正子さんは、1935年(昭和10)、石川県七尾市に生まれ、4歳で父を、11歳で母を亡くして上京。54年(昭和29)、新聞・雑誌の販売会社東都春陽堂に入社した。最初は東京駅に近い東京中央郵便局前、次に京成線日暮里駅のホーム、その後品川、駒込、新橋などの売店を経て、71年(昭和46)、ニュートーキョー前に来た。
正子さんは午後の1時には売り場に立ち、地下鉄の終電が出るころ同じ東都春陽堂に勤める夫に手伝いに来てもらってスタンドをしまい自宅に帰る。それから伝票とお金の計算をして、寝るのは午前3時。翌朝9時には電話でその日の新聞・雑誌の部数を確認。家事をしてからお昼に家を出る日課である。売り上げの1割3分から1割5分が収入になる契約販売員であった。
正子さんには1年前に「花暦」(その後「艸」と改称)で会った。女性メンバーが8割を占めるこの俳句の会で、正子さんの言動には何か力強いものがあった。通信社に勤める俳句仲間によると、数寄屋橋ニュートーキョー前の正子さんの新聞・雑誌スタンドは『週刊文春』の田中健五や花田紀凱などが発売日の夜に立ち寄り、扇谷正造なども時々のぞきに来る、マスコミでは有名なスポットだったという。
以下、当時の正子さんのスタンドがどのくらい注目されていたのか、その一端を紹介してみたい。
『Yu Yu』1973年(昭和48)8月31日号(タウン紙)は「銀座の『有名人』安住正子さん」と題し、正子さんを紹介している。
ここに店を出して、3年(目)になる。場所は、正確には有楽町2-4.いわば銀座の入口。玄関先。玄関番。
「永六輔さん? エーちゃんはあまり買わない。立ち話していくだけよ。あたしと同じで、好奇心が旺盛でね」
「渥美清さんは、朝日、読売、毎日と3種類の夕刊を買っていくわよ。スターぶっていないから、隣のお客さん、わかんないのね。若い売れっ子タレント? 買わないですよ。横目でチラリよ」
「(月の家)円鏡さん。円鏡さんは週刊明星とか、週刊平凡…。ほかのタレントの動きをみるんじゃない?」
『サンケイスポーツ』1974年12月18日号には「新聞絶やすな目肥やせ 販売スタンド日本一おばさん」のタイトルで、鉄道弘済会の売店をのぞいて都内に5000軒ある売店のなかで、一日20万円以上の日もある売り上げナンバーワンの売店として正子さんの店が挙げられている。
『デイリースポーツ』1975年(昭和50)10月5日号では記者の質問に、
やっぱり、週刊誌や雑誌は発売日が勝負どころになる。…それで、商品の置き場所や並べ方を考える。…カタイ本はこの正面、左手は女性週刊誌とマンガ雑誌、エロ週刊誌は右手の隅っこ、…よく売れる新聞は両方のハシのほうに置くの。端っこ。…新聞の活字をみて、なに新聞ってわかるし、紙面をみて、その新聞が売れるか、売れないかもわかっちゃう。
と答えている。正子さんは職業的臭覚を働かせ、どこに何を置けばいいか、工夫をこらしていたようだ。当時は新聞だけで1日1000部以上を売り、『週刊ポスト』『週刊現代』『週刊文春』『週刊新潮』などの出版社系週刊誌、『漫画アクション』や『ビッグコミック』などの漫画週刊誌がよく売れたという。
『話の特集』1976年11月号には「女ひとりの街頭売り」のタイトルで文章を寄稿している。
はじめは、ただ活字にふれる仕事を、と思った。本屋の店員でもよかったのだ。しかし、私はその日のお金が欲しかった。四畳半のアパートを借り、独立したばかり。今日一日食べるお金を手にしたかった。…
大きいニュースの時は、気分も浮き立つ。お客様がニュースを待っているのだ、という使命感。…こんな時は仕事が楽しい。…田中角栄逮捕で、新聞売り上げの新記録達成。東スポはいつもの三分の一にダウン。国民の関心はやはりロッキード。…
実際、多くのタレントさんが買いに来られる。…
ケーシー高峰さん。
「週刊『馬』がないね」
「もう木曜日だから売切れですよ」
田谷力三さん。
「お元気ですね」
「ええ、これでも七十を越えているんですよ。まだまだ元気いっぱいですよ」
草柳大蔵さんがタクシー乗場から、
「ガムください」
「これだけですけど」
「ロッテしかないのか。じゃ、グリーンガムちょうだい」
内海好江さん。
「週刊誌買うのは馬鹿らしいわ。見出しと写真を見るだけよ」
「どうぞ」
「でも、『住宅新報』買うわ」
野坂昭如さん。
「本当に立候補するんですか」
「うん、するよ」
「ところで最近の作品なんか読むと、面白くなくて…。『アメリカひじき』みたいなのはもう書かないんですか」
「あんなのは、いくら俺でも一生に一度か二度しか書けないよ」…
雨降り。テントを張って開店。毎日、寄ってくれる客もこの日はバッタリ。…
赤い帽子をかぶり、ジーンズ姿でてきぱきと新聞を売りさばく正子さんの姿と銀座の賑わいが彷彿させられる文章だ。
1986年(昭和61)12月『ある日本人 有楽町に世相を見る』と題し、「今日は東京の繁華街で、世の中のうつり変わりを眺めながら31年間新聞売りを続けている、安住正子さんをご紹介します」とNHK国際放送から海外に放送が流れた。
2001年(平成13)11月27日の朝日新聞「声」欄に「ニュース売り 歩んだ46年間 新聞販売 安住正子(東京都板橋区 66歳)」の投稿が掲載されている。
20歳の時、学もない私が大都会ですぐ日銭を稼げる仕事をと、新聞広告で見つけたのが、新聞スタンド販売という仕事。以来、酷暑であれ、酷寒であれ、ひたすら街頭に立ち、その時々のニュースと共に歩んできた46年です。
三菱重工爆破、浅間山荘事件、三島由紀夫自決、昭和天皇崩御など、大ニュースを売りさばきました。その間、これでもか、これでもかと、週刊誌の発刊ラッシュ。そして相次ぐ休刊。めまぐるしく変わる社会そのものが、小さな売り場に凝縮されているような気がします。
返品こん包のために曲がった指、紙に脂を取られて硬くなった手のひら。患った大病も克服しました。お客との会話の楽しさ、ニュースを売るのだという使命感? それらに支えられ、体が続く限りやっていくつもりです。
来し方を語るてのひら秋深む
「患った大病」は「肺がん」で、長年の街頭販売で排気ガスを浴びつづけたせいだったと正子さんは言う。
冒頭の文章の15年後、JR浅草橋駅西口に移っていた正子さんのスタンドを訪ねた永六輔は、自己の人生哲学にからめ、正子さんのどこに惹かれるのかを以下のように語っている。
…東京って一番人が歩いているところなのね。日本でも世界の中でも。おばさんは何十年と見てきているからね。見続けて四十年、そこが凄いのね。東京ってこんなにたくさん人が歩いているのに人を見ていない。歩いている人を見ていない人が世の中を動かすのはよくないんだよね。…
最近僕があまり東京にいたくないって思うのは、古い街並が消えるからではなく、安住さんのような人がいなくなったからなんですよ。なんでもないおばさんが、哲学的だったり、物知りだったり、聞けば感動するような激動の人生を送っていたりっていうね。(「わが秘(うち)なる東京」『TWINArch(ツインアーチ)』2004年10月)
この東京商工会議所の広報誌(2013年に廃刊)には、正子さんの俳句も紹介されている。
初刷りや筍差しの思いっきり 正子
販売スタンドの筒状に差した新聞をこの業界では「筍差し」と表現していた。
浅草橋駅西口のあと後楽園場外馬券売り場(金・土曜日のみ)などを経て、2010年、地下鉄千代田線の売店を最後に正子さんは退職した。75歳だった。
正子さんが街頭スタンドに立った時代は、新聞や雑誌を作る人、売る人、読む人に報道に対する信頼感があり、政治や経済だけでなく、正子さんの記事のような「街の噂」を楽しんで読む読者もいて、ジャーナリズムが活発に機能していたような気がする。
その後ネット社会の到来で、新聞や週刊誌を読む人が減り、街角や駅のホームから昔ながらの売店は消え、コンビニなどに替わっていった。いまは電車で新聞や雑誌を読んでいる人はめったにいない。乗客が手にしているのはスマホである。
日本の新聞の総発行部数は1974年に4000万部、1988年に5000万部、1997年に5376万5000部に達したあと減少に転じ、2018年には4000万部を割った。林香里によると、いまの若い世代は新聞をほとんど読まず、2017年の総務省調査では10代の平日の平均新聞閲読時間は0.3分だという(『メディアは誰のものか――「本と新聞の大学」講義録』集英社新書)。
一方、(漫画誌を含む)週刊誌の総発行部数は1997年(平成9)に21億9210万冊のピークに達したが、以降は部数減が続き、1978年には66万部で売り上げトップだった『週刊ポスト』の2018年下期の部数は19万部にまで落ちている(ABC部数)。しかし、政治家の金脈問題や女性関係、司法のファッショ化など、新聞で書けないことを臆せず書く(元木昌彦『週刊誌は死なず』朝日新書)週刊誌をこのままなくしていいのだろうか。
新聞や週刊誌などの紙メディアの縮減はこれからも続き、若者を中心にニュースはネットメディア、ことにスマホで見る割合がいっそう増えてゆくだろう。奥村倫弘によれば、新聞などの伝統メディアは取り扱うニュースの基準を「真実を世に知らしめ、公共に資する」ことに置いてきたが、ネットメディアは「利用者の興味や関心を満たし、商業的な成功を達成する」ことを基準に置いているという(藤竹暁、竹下俊郎編著『図説 日本のメディア[新版]――伝統メディアはネットでどう変わるか』NHKブックス)。
いまの日本では報道やニュース、それを伝えるメディアに対して、「不信」というよりも「無関心」「無関与」な状態だとの指摘もある(林香里『メディア不信――何が問われているのか』岩波新書)。
自分に関心があったり、心地よかったりする情報だけをネットメディアで受け取るのではなく、新聞や雑誌などを通じて公共性のある情報を受け取ることは誰にとっても必要なことではないかと思うが、どうだろうか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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