メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

『いだてん』田畑の妻も? 新聞社で働く女性たち

大河ドラマが描いた/描かなかった朝日新聞社 その2

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

 NHK大河ドラマ『いだてん』に登場した朝日新聞社のシーンでは、史実とフィクションが、どう描かれ、あるいは描かれなかったのか。その報告の2回目は、働いていた女性に視線を向けてみる。

田畑政治の妻となる菊枝の仕事は?

いだてん田畑田畑政治結婚を報じる東京朝日社報昭和8年5月号の個人消息欄

 『いだてん』には7月28日に放送された第28話から、麻生久美子演じる酒井菊枝が登場している。朝日新聞で働く「速記者」で、後に阿部サダヲ演じる田畑政治の妻になった女性だ。

 田畑が口にする「アレ」「ナニ」ばかりでわけがわからない情報を、ちゃんと原稿として書き取り、田畑がオリンピック応援歌詞の投稿箱を探し始めると、もう手に取っていて渡すという特異な能力を持つ――というのは、さすがにファンタジーだが、そのころ、朝日新聞社の編輯(へんしゅう)局では実際に、女性の速記者が働いていた。

 田畑が「酒井菊枝」と結婚したのは史実で、社内報の社員消息欄にも、1933年(昭和8)3月30日に「緒方編輯局長夫妻の媒酌で結婚」と記されている。

 ただし、彼女が朝日新聞社で働いていたというのはフィクションだ。

 ドラマでは彼女を社員に設定することで、菊枝が、田畑に夜食をお裾分けしたり、ソファに寝っ転がった田畑が口述する原稿を筆記したり、ロサンゼルス五輪の予定稿を託されたりと、いう主人公には不可欠の愛情物語がふくらんだ。

菊枝の「先輩」にあたる人物

いだてん田畑1915年ころの電話室と速記者たち。右端が高畠ふみ

いだてん田畑朝日新聞で使っていた各種速記の例=朝日新聞社史資料編から
 ドラマでの菊枝の「先輩」にあたる人物は実在した。朝日新聞最初の女性速記者、高畠ふみ。1908年(明治42)に20代前半で入社し、1936年(昭和11)に退職している。

 「速記者」とは、特殊な記述方法で話し言葉を即座に書き記し、逆にその記述から元の発言を復元できる専門家で、新聞社では、電話で記事を送るときの受け手として活躍した。電話代が非常に高かったので、記者が読み上げる記事を速く正確に書き取る速記者たちを雇う必要があったのだ。

 電話の回線が限られていたころ、朝日新聞は「電話室」を設け、速記者たちもそこに集まっていた。取材網が各地に広がり、締切時間に向けて記事を送る電話が一斉にかかるようになってくると、受ける電話を壁に何台も並べ、速記者はその前で、立って記事を書き取るようになった。「いだてん」ではその様子も再現されていた。

 ドラマでの速記者・菊枝の仕事には、「秘書」的な要素もあったが、現実の速記者は、特定の記者や幹部の専属ということはなかった。ただ特に依頼されて、通常とは別の業務として、論文の口述筆記をした例などはある。

 また、記者会見の場に、記者とは別に速記者が赴いて、発言をまるごとメモしてくるという仕事もあった。

 「速記」で思い出すことがある。これは筆者だけの経験ではないと思うが、取材メモを書いていて、相手に「ほほう、それが速記ですか」と聞かれたことが何度かある。当方、速記術は何も知らず、即座に否定したが、そのメモには、単に崩れただけの、ミミズのような文字が書き連ねられていた。

女性記者第一号、波乱の生涯

 東京朝日新聞社が1936年(昭和11)の二・二六事件で襲撃された時、将校たちが社内に入ろうとするのを、リリー・フランキー演じる緒方竹虎が「ちょっと待ってくれ、中には女・子供もいる。まずはそれを出す」と押しとどめるシーンがあった。

 編輯局にいた女性たちとは、先に挙げた「速記者」、そして「記者」である。

 「いだてん」では、田畑政治が入社してからしばらくは、学芸部と校閲部にそれぞれ1人の若手の女性記者が設定されていた。

いだてん田畑竹中繁子=1929年(昭和4)5月の社員写真帳から
 朝日新聞最初の女性の記者は竹中繁(社史では繁子と表記されている)で、1911年(明治44)に入社した。満36歳だった。

 最初のということで、「朝日新聞社史 明治編」でも顔写真付きで取り上げている。しかしその人物像の紹介は表面をなぞっただけだった。

 この社史刊行後の1999年に伝記「窓の女 竹中繁のこと 東京朝日新聞最初の婦人記者」(香川敦子、新宿書房)が出た。そして2018年には研究書「女性記者・竹中繁のつないだ近代中国と日本 一九二六~二七年の中国旅行日記を中心に」(山﨑眞紀子・石川照子・須藤瑞代・藤井敦子・姚毅、研文出版)が刊行された。

 両書では、竹中の足跡と業績が明らかにされている。

 以下、両書からの引用で、竹中を紹介する。少々長くなり、また、プライベートな事項もあるが、後者の本の中ではお孫さんも座談会に登場して語っていることから、避けずに記すことにする。なお※印で言及しているのは、前田が社の史料を調査して補った部分である。

     ◇   ◇   ◇

 竹中繁は、東京の桜井女学校、それが合併した女子学院で英語教育を受け、卒業後にアメリカ人女性の宣教師が開いていた私塾を手伝っていた。

 そこに鳩山一郎(のちの政友会の政治家で、田畑政治は記者として食い込んでいた。戦後には首相となる)が英語を習いにきた。竹中は鳩山の子を宿し、1907年、32歳の年に男子を出産した。鳩山は去り、翌年幼なじみと結婚。竹中は男子を養子に出し、鳩山とは関係を断って、養育費もすべて自分で負担した。女子学院の矢嶋楫子院長の取り計らいで、女子学院の寄宿舎で舎監として働き、日本基督教婦人矯風会の活動もしていた。

 1911年に舎監を辞め、一時雑誌社に入ったが、東京朝日新聞社の社会部長・渋川玄耳のあっせんで朝日に入社した。
 〈※ 渋川は当時、大胆に社内を改革・近代化していた〉

 竹中は6カ月の試用期間を社会部の市内通報員として働き、正式採用された。英語力を生かして、外国人女性とのインタビューなどを担当した。「窓の女」とは渋川が付けたあだなである。
 〈※当時の編輯局内の見取り図には、窓際に竹中の席が記されている〉

いだてん田畑1955年の竹中繁。婦人運動活動家ための養老院を建てるため千葉県の自宅を提供した
 他社の女性記者たちと交流し、1915年には婦人記者倶楽部をつくった。女性運動にもジャーナリストとして関わるようになり、全関西婦人連合会にも何度か参加。このころ市川房枝と知り合う。
 〈※全関西婦人連合会は大阪朝日新聞の恩田和子記者が支援していた〉

 中国にも目を向け、1926年夏から1927年2月まで中国に滞在した。
 〈※朝日新聞には私費留学と届け出た〉

 そして1928年(昭和3)には社に働きかけて、学芸部の主催という形で、女性運動家たちを集めた会「月曜クラブ」を創設した。
 〈※市川、羽仁説子、平林たい子、平塚雷鳥、奥むめお、野上弥生子、与謝野晶子、林芙美子、田村とし子、村岡花子、岡本かの子……さまざまな人たちが出入りした月曜クラブは1937年まで続いた〉

 1930年(昭和5)に東京朝日新聞を定年退職する。
 〈※その後「客員」という形となる〉

 そして、満州事変が勃発した直後の1931年(昭和6)10月に、「月曜クラブ」から派生した「一土会」を開いた。毎月第一土曜日に集まって中国を語る会は33年(昭和8)1月まで記録されている。そして竹中は、自宅に中国人留学生を下宿させるなど、中国との関わりを続けている。

 1968年(昭和43)10月29日死去。市川房枝との親交は終生にわたった。しかしその市川にも、子供を産んでいたことは話していなかった。

     ◇   ◇   ◇

 以上が竹中繁の歩みである。

二・二六事件のさなかも、電話交換を続けた

いだてん田畑1937年(昭和12)年ごろの大阪本社電話課

 田畑政治や同僚の記者たちにとって、女性記者といえば竹中繁だった。

 当時、朝日新聞は1929年(昭和4)から5年ごとに社員写真帳をつくっているが、その年と1934年(昭和9)の写真帳には、東京朝日新聞編輯局の女性社員には竹中繁と高畠ふみを含めて2~3人しか記載されていない。

 では、緒方が「女・子供もいる」と言った、社内で働いていた女性とは。

 二・二六事件のとき、女性の電話交換手が4人いた。事件が起きた連絡が入った早朝、宿直で社内にいた2人の交換手は、社員の非常召集に大わらわとなった。その作業が一段落すると同僚2人も呼び出し、彼女らは朝8時30分ころに駆けつけた。

 その直後の9時ころ、兵たちが乱入してきた。4人は電話交換室の鍵を掛けて閉じこもり、交換業務を続けている。

 また、緒方が将校と対面するために部屋を出て使ったエレベーターの係も女性だった。落ち着いていたという。

 事務部門にも大勢の女性がいたが、乱入のころ、多くは出社前だったようだ。

 次回は「子供」についてお伝えする。