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『いだてん』田畑の妻も? 新聞社で働く女性たち

大河ドラマが描いた/描かなかった朝日新聞社 その2

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

女性記者第一号、波乱の生涯

 東京朝日新聞社が1936年(昭和11)の二・二六事件で襲撃された時、将校たちが社内に入ろうとするのを、リリー・フランキー演じる緒方竹虎が「ちょっと待ってくれ、中には女・子供もいる。まずはそれを出す」と押しとどめるシーンがあった。

 編輯局にいた女性たちとは、先に挙げた「速記者」、そして「記者」である。

 「いだてん」では、田畑政治が入社してからしばらくは、学芸部と校閲部にそれぞれ1人の若手の女性記者が設定されていた。

いだてん田畑拡大竹中繁子=1929年(昭和4)5月の社員写真帳から
 朝日新聞最初の女性の記者は竹中繁(社史では繁子と表記されている)で、1911年(明治44)に入社した。満36歳だった。

 最初のということで、「朝日新聞社史 明治編」でも顔写真付きで取り上げている。しかしその人物像の紹介は表面をなぞっただけだった。

 この社史刊行後の1999年に伝記「窓の女 竹中繁のこと 東京朝日新聞最初の婦人記者」(香川敦子、新宿書房)が出た。そして2018年には研究書「女性記者・竹中繁のつないだ近代中国と日本 一九二六~二七年の中国旅行日記を中心に」(山﨑眞紀子・石川照子・須藤瑞代・藤井敦子・姚毅、研文出版)が刊行された。

 両書では、竹中の足跡と業績が明らかにされている。

 以下、両書からの引用で、竹中を紹介する。少々長くなり、また、プライベートな事項もあるが、後者の本の中ではお孫さんも座談会に登場して語っていることから、避けずに記すことにする。なお※印で言及しているのは、前田が社の史料を調査して補った部分である。

     ◇   ◇   ◇

 竹中繁は、東京の桜井女学校、それが合併した女子学院で英語教育を受け、卒業後にアメリカ人女性の宣教師が開いていた私塾を手伝っていた。

 そこに鳩山一郎(のちの政友会の政治家で、田畑政治は記者として食い込んでいた。戦後には首相となる)が英語を習いにきた。竹中は鳩山の子を宿し、1907年、32歳の年に男子を出産した。鳩山は去り、翌年幼なじみと結婚。竹中は男子を養子に出し、鳩山とは関係を断って、養育費もすべて自分で負担した。女子学院の矢嶋楫子院長の取り計らいで、女子学院の寄宿舎で舎監として働き、日本基督教婦人矯風会の活動もしていた。

 1911年に舎監を辞め、一時雑誌社に入ったが、東京朝日新聞社の社会部長・渋川玄耳のあっせんで朝日に入社した。
 〈※ 渋川は当時、大胆に社内を改革・近代化していた〉

 竹中は6カ月の試用期間を社会部の市内通報員として働き、正式採用された。英語力を生かして、外国人女性とのインタビューなどを担当した。「窓の女」とは渋川が付けたあだなである。
 〈※当時の編輯局内の見取り図には、窓際に竹中の席が記されている〉

いだてん田畑拡大1955年の竹中繁。婦人運動活動家ための養老院を建てるため千葉県の自宅を提供した
 他社の女性記者たちと交流し、1915年には婦人記者倶楽部をつくった。女性運動にもジャーナリストとして関わるようになり、全関西婦人連合会にも何度か参加。このころ市川房枝と知り合う。
 〈※全関西婦人連合会は大阪朝日新聞の恩田和子記者が支援していた〉

 中国にも目を向け、1926年夏から1927年2月まで中国に滞在した。
 〈※朝日新聞には私費留学と届け出た〉

 そして1928年(昭和3)には社に働きかけて、学芸部の主催という形で、女性運動家たちを集めた会「月曜クラブ」を創設した。
 〈※市川、羽仁説子、平林たい子、平塚雷鳥、奥むめお、野上弥生子、与謝野晶子、林芙美子、田村とし子、村岡花子、岡本かの子……さまざまな人たちが出入りした月曜クラブは1937年まで続いた〉

 1930年(昭和5)に東京朝日新聞を定年退職する。
 〈※その後「客員」という形となる〉

 そして、満州事変が勃発した直後の1931年(昭和6)10月に、「月曜クラブ」から派生した「一土会」を開いた。毎月第一土曜日に集まって中国を語る会は33年(昭和8)1月まで記録されている。そして竹中は、自宅に中国人留学生を下宿させるなど、中国との関わりを続けている。

 1968年(昭和43)10月29日死去。市川房枝との親交は終生にわたった。しかしその市川にも、子供を産んでいたことは話していなかった。

     ◇   ◇   ◇

 以上が竹中繁の歩みである。

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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