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木庭顕氏に聞く 古典の問題意識は読む側をも問う

木庭顕 歴史学者、東京大学名誉教授

 「西欧近代」の成立には、古代ギリシャ・ローマの「古典」を連綿と読み続ける作業が必要不可欠だった――。朝日新聞の7月8日付朝刊「文化の扉」に掲載された「西欧近代 古典が源流」(朝日新聞デジタル版は「(文化の扉)西欧近代、古典が源流 古代ギリシャ・ローマの分析、多様な学問生む」)は、イタリア出身の20世紀の歴史学者、アルナルド・モミッリャーノ(モミリアーノ)の研究をもとに、「歴史学の歴史」の大きな流れを紹介した。記事のベースになった、歴史学者でギリシャ・ローマ史が専門の木庭顕・東京大学名誉教授とのやりとりからは、古典のテクストと向き合う精緻な読解から、近代の様々な学問領域が生まれる過程が垣間見えてきた。(聞き手・文化くらし報道部 大内悟史)

――史料を取り扱う具体的な作業はどのように進んだのでしょうか。やはり、テクストを精密に読み解くということになるとは思うのですが……。

木庭 文学作品のように長い完成されたテクストを読解する、ということとは少々異なります。もっぱらもろもろの断片を、パズルを解くように扱って、古い層と新しい層、あるいは各層内部の「対抗」関係を再構成するのです。

――そのような研究が進んだとして、なぜ「古典」と「近代」の間の関係を考え直すことにつながったのですか?

木庭 史料批判に際しては、オリジナルにより近い「史料の史料」を想定して分析しますが、いま手元にある史料が下敷きにしているソースとの関係が史料上に現われますね。モミッリャーノは、ある史料とそのソースの関係を単なる影響ないし派生関係と見るのではなく、極めて複雑なやりとりをそこに想定しました。

――ここでも「複雑」がキーワードですね。「極めて複雑」というと、「唯一の原典に記された固い歴史的事実」にたどり着こうとするわけではない、ということを意味しそうです。

木庭 そのとおりです。まず、人文主義以降の古典の解釈者は、アイデアや技術を輸入するように、つまり素朴にそこに何かあるぞと考えてテクストを読むのではなく、まず数百年の時空を超えた全く異質なものと考え、対象となるテクストとかえって全面対決します。そのときに、古典のテクストの内部に必ず鋭い「対抗」関係を見出します。そのテクスト自体、はっきりと意識している相手があって、極めて鋭く切り結んでいる。すると、そのテクストを何かわかりやすいものをあらわそうとしているものとして読み、テクストの「ことば」やそこから読み取れる「出来事」にそのまま従うということはそもそもできなくなる。鋭く切り結んでいるということは、何か深刻な問題をめぐって人々が対立している、テクスト上にそうした対立が反映されていると考える。その問題や対立は当該社会の深い構造的部分に発している……。

木庭顕・東京大学名誉教授(ギリシャ・ローマ史)木庭顕・東京大学名誉教授(ギリシャ・ローマ史)

対抗と積み重ね 古典の問題設定を受け継ぐ

――古典そのものがその内部に矛盾や亀裂を抱えており、深刻な問題をめぐる対立を反映したものだとすると、古典と向き合う読者の姿勢も問われますね。

木庭 古典の解釈者がそのような姿勢でテクストと向き合えば、反射的に、自分自身が向き合う現実について深く反省させられ、そこに自らが抱える深刻な問題を発見することになります。しかも、元のテクストが向き合っている問題設定を受け継ぐことにもなる。元のテクスト自体が問題を深めていく積み重ねの産物なので、解釈者は結局その積み重ねに加わることになる。勝手に問題を設定しているのではないのです。

ギリシャ・アクロポリスの丘にあるパルテノン神殿ギリシャ・アクロポリスの丘にあるパルテノン神殿

――ギリシャのデモクラシーを参照しながら、共和政ローマの歴史が語られ、そこには同時代の政治のあり方をめぐる問題意識も反映されている。そうして叙述されたローマの歴史を、15世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが読み、15~16世紀のニッコロ・マキャヴェッリが読んだ……。

木庭 近代の文学・歴史学・哲学は例外なく古典を下敷きにしており、その際必ずこのような思考様式の系譜、つながりが現れます。モミッリャーノは古典をめぐる「対抗」と「積み重ね」の双方を、特に近代の歴史学や古典研究に関して、他の誰よりも立体的に描き出したと言うことができます。いや、そのような研究に初めて道を開いた人物なのです。

――そのような分析法で明らかになった「成果」とはどんなものか、具体例が知りたいのですが。

木庭 実は、「成果」という言葉はモミッリャーノにはふさわしくないものです。彼の有名な言葉の一つに、

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