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木庭顕氏に聞く 立体的な思想史を描き出す

木庭顕 歴史学者、東京大学名誉教授

 「西欧近代」の成立には、古代ギリシャ・ローマの「古典」を連綿と読み続ける作業が必要不可欠だった――。朝日新聞の7月8日付朝刊「文化の扉」に掲載された「西欧近代 古典が源流」(朝日新聞デジタル版は「(文化の扉)西欧近代、古典が源流 古代ギリシャ・ローマの分析、多様な学問生む」)は、イタリア出身の20世紀の歴史学者、アルナルド・モミッリャーノ(モミリアーノ)の研究をもとに、「歴史学の歴史」の大きな流れを紹介した。記事のベースになった、歴史学者でギリシャ・ローマ史が専門の木庭顕・東京大学名誉教授とのやりとりからは、古典のテクストと向き合う精緻な読解から、近代の様々な学問領域が生まれる過程が垣間見えてきた。(聞き手・文化くらし報道部 大内悟史)

――ただ、モミッリャーノといえどもいきなりこうした分析法に辿り着いたのではなく、先行研究の蓄積の上にそこに至ったのだと思います。また、モミッリャーノの研究がどのように受容され、その後の世代に受け継がれたかについても知りたいと思います。

木庭 既に、史料のバイアスを歴史的現実の解明に用いたことで明らかなように、モミッリャーノは大きく言って、歴史学およびフィロロジー(文献学・校訂学)における実証主義を批判する動向に属します。18世紀末から、歴史研究のターゲットとして「固い事実」に辿り着くということが浮上します。これとパラレルに、写本の伝承に関してはオリジナルな正しいテクストがある、という風に考えるわけですね。ところがモミッリャーノは、複雑で立体的に組み上がった社会的現実の長期的な変化こそがターゲットなのではないか、テクストには初めから異本が存在しており、どちらが正しいかではなく異本が存在すること自体が貴重な現実ではないか、という視点を持っていました。ただし彼の場合、構造主義や現象学といった実証主義批判の多様な陣営の中で、むしろ初期近代以前のイタリア人文主義に帰ろうとする側面があり、そのぶん堅固な基盤を持ち、理論的にはオープンです。これは、イタリアでは脈々と流れ続ける最高度の知識層が育んできたもので、その中からしか生まれなかった姿勢であると言えます。

 モミッリャーノが後世に与えた影響については、まずフランスの歴史学者ヴィダル・ナケなどのギリシャ学のパリ学派に決定的なインパクトを与えました。彼らはデュルケームの社会学ないし構造主義から出発したのですが、モミッリャーノは、これに歴史学としての基礎を与えなおした面があります。モミッリャーノはさらに、思想史の研究を大幅に立体化するのにも貢献しました。アンティクアリアニズムへの着目はその一例にすぎません。英米両国における政治思想史の大家ジョン・ポーコックは晩年(1990年代以降)になってモミッリャーノの分析法に依拠した大作をのこしており、これは英語圏における彼が与えた影響の到達点と見ることができます。モミッリャーノの名前を知らなくとも、今日の思想史研究では必ず古典のソースとの関係でテクストを読み解くというのが標準化しています。ソース探求自体はそれこそ最もスタンダードな各国古典文学研究の内容でしたが、新しい方法的意識によってそれが遂行されるということですが。

ローマのフォロ・ロマーノローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」

現代社会の問題意識から古典を読む

――となると、先ほど鷗外の「史伝」についてうかがいましたが、モミッリャーノの手法を用いて、今の日本の社会構造に関わる問題を意識しながら過去の問題を読み解いていく、ということも可能ですね。

木庭 私は日本史に関しては何も知りませんが、理論的にはそうなります。つまり、過去の問題を単純に引き摺って反復しているだけだとか、全く新しい問題に苦しんでいるといったことはない、ということになります。ただし、ヨーロッパの近代も大変に混乱していますが、それ以上に、われわれは史料どうしの関係における立体構造を精密に意識しながら積み上げてきたという古典を読む蓄積そのものをほとんどもたない。だから、同じ方法が妥当するとしても、問題はE難度の応用問題となります。捻れに捻れたところをどう解明するか。癒着したり地下に潜ったり、ということになります。

――そうしたE難度の試みの一つが、木庭さんと中高生が対話した講義録『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)だと理解しています。古典と近代の間の密接不可分な関係については分かりました。それでも、なお不思議に思うのは、なぜ近代の土台がギリシャ・ローマでなければならなかったか、です。特に、ラテン語などというと日本の国語教育でいう「古文・漢文」のようなもので、ヨーロッパでも権威主義や保守的なものを連想されてしまうと思いますが。

『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)

木庭 私のあの本はもっぱら

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