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『ゴールデンカムイ』の旅から、本と土地の歴史へ

渡部朝香 出版社社員

ユジノサハリンスクの本屋さん

 前篇では、サハリン州の北の旧都、亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)での『ゴールデンカムイ』聖地巡礼について記したが、亜港まで足を延ばすのはなかなか大変で、容易にはお薦めしがたい。でも、成田から2時間かからずして行くことができる豊原、現在の州都ユジノサハリンスクだけでも、『ゴールデンカムイ』(通称、金カム)の読者には多くの見どころがある。

 「アントン・チェーホフ『サハリン島』文学博物館」は、作品としての『サハリン島』についてだけでなく、流刑地としてのサハリンの歴史がよくわかる博物館だった。金カム読者には既知の、逃亡時に目立つよう頭髪を半分だけ剃り落とされた囚人が、蝋人形で再現されている。

「アントン・チェーホフ『サハリン島』文学博物館」「アントン・チェーホフ『サハリン島』文学博物館」=撮影・筆者

 サハリン州立郷土博物館は聖地中の聖地で、『ゴールデンカムイ』に登場する樺太アイヌ、ウィルタ、ニブフといった民族の衣服や民具が展示されていて、金カムファンにはたまらない。作品内に登場するウィルタの頭痛のお守りの実物も目にすることができた。

「サハリン州立郷土博物館」に展示されている国境標石「サハリン州立郷土博物館」に展示されている国境標石=撮影・筆者
 郷土博物館には北緯50度のロシア(ソ連)・樺太国境に置かれていた、大きな将棋の駒のようなかたちの標石もあった。

 ただ、側面の記述からして、『ゴールデンカムイ』の国境越えのシーンに描かれた標石とはちがっていた。標石は4つつくられ、博物館にあったものは「天第一号」の実物と「天第三号」のレプリカらしい。『ゴールデンカムイ』の標石には、「天第二号」と描きこまれている。「天第二号」の現物は根室市「歴史と自然の資料館」が所蔵しているので、いずれはそこにも行かねばならないかしらん……。

 こういうのを、沼にハマるというのだろう。

 帰国を前に、商店が並ぶユジノサハリンスクの通りで、書店を探した。

 ショッピングモールや市場の近くにはマガジンスタンドがあり、雑誌やペーパーバックが文房具と一緒に並び、小さな本屋としての機能をはたしているように見える。

 マガジンスタンドのほか、3軒の書店に立ち寄った。サハリンは店が閉まるのが早く、そのうちの1軒は17時には閉店していて中に入ることができなかったが、どの店もこぶりな店構えで、州都とはいえ日本の大規模書店のような店はなさそうだ。

 訪ねた書店のうちの1軒は、小さな間口の奥で年配の女性店主が一人で店番をしている、少し前に日本のあちこちの町にあったような本屋さん兼文房具屋さんだった。

無愛想な店主の本屋さん無愛想な店主の本屋さん=撮影・筆者

 本の並べ方は日本の書店と比べて雑然としている。本を棚に横積みしていたりする。分野ごとにわかりやすく整理されている様子もない。SFやミステリーとおぼしき華やかな装丁の本が目につくところに置いてあるが、よくよく見るとヴィクトル・ユーゴーなどの古典の翻訳やマルコ・ポーロやチンギス・ハーンといった人物の評伝シリーズなど多彩な品ぞろえで、小説と歴史ものの需要が高いことが察せられた。

 店主のおばちゃんからは、「観光客の冷やかしかい」とでもいうような、うんざり気味の視線を感じる。それが、一緒に行った著者の方が、こういう本はないかと尋ねると、微妙に目の色が変わり、まさにこういうものがほしかったという本を奥からひっぱりだしてくれた。この規模の店が取り扱っているとは思えないような本だ。

本屋さんの店内本屋さんの店内=撮影・筆者

 それでも、おばちゃんの顔に笑みが浮かぶことはなかった。むすっとした表情のままに会計を終え、かさばる本を渡しながら、通訳をかってでてくれたロシア文学研究者の越野剛さんに向かって、愛想なく言葉を投げかけた。

 「こういうのは、男が持つもんだよ」「また、おいで」

 一同みな、そのおばちゃんに魅了されて店を出た。

 今年の7月、朝日新聞GLOBE+に、『不思議の国ベラルーシ――ナショナリズムから遠く離れて』(岩波書店)などの著書がある服部倫卓さんが書いた、「「ロシア国民は世界で一番読書をする」は本当か?」という記事が掲載されていた。ロシアは読書が盛んな国であるのは、まちがいなさそうだ。

 それでも読書人口は減ってきているし、電子書籍がかなり普及しているので、書店の状況も、おそらくかつてとは異なってきているのだろう。日曜だったが、いずれの本屋も、わたしたち以外にお客がいなかったことが思いかえされる。

子どもの本でロシアと出会う

 コルサコフとアレクサンドロフスク・サハリンスキーに同行してくれたロシア人のガイド、ワシーリィさんは、驚異的な博識で、訪ねた場所ごとの歴史的な解説に加え、道端に咲く花々の名を、ロシア語やアイヌ語、日本語で、たちどころに教えてくれた。ペレストロイカ以降、日本人のガイドを多く務めるようになり、日本語は独学で習得したという。ネイチャーライフを愛し、植物学や地理学の論文まで目を通す読書家だ。サハリンの金カム聖地巡礼がもっと盛りあがることを願い、ワシーリィさんに『ゴールデンカムイ』近刊数巻を渡してきた。

 ワシーリィさんとは、文学についてもおしゃべりした。

 「マヤコフスキーの詩は、ロシア革命やソヴィエトがどういうものだったか知らないとわからないから、いまの若いひとたちは、あまり読まないですね」

 「マルシャークは、わたしが子どものころはよく読まれていましたが、いまの若いひとには、あまり読まれない」

 そのワシーリィさんと、「そう、それ!」と、とりわけ盛り上がったのは、子どものころに読んだ絵本についてだった。

 『マーシャとくま』『3びきのくま』『おおきなかぶ』てぶくろ』(福音館書店)……。

 日本版の絵本の表紙をスマートフォンでワシーリィさんに見せながら、幼いころ意識しないままに、ずいぶんとロシアやウクライナの物語に触れていたのだと気づかされた。『3びきのくま』はトルストイの作品だ。

 自分が住む国と異なる国やそこに暮らすひとびとを近しく感じさせてくれる媒介者として、本がはたす役割の大きさを思う。とりわけ、絵本やマンガのように、子どもや若いひとがうけとる物語の影響力ははかりしれない。

「サハリン州立郷土博物館」(旧・樺太庁博物館の建物)=撮影・筆者「サハリン州立郷土博物館」(旧・樺太庁博物館の建物)=撮影・筆者

 本に関心をはぐくまれ、本を持って旅に出れば、その土地はさらに親しい場所となる。

 少し意識してみれば痕跡やモニュメントは至るところにあり、土地に刻まれた歴史が、いま現在もつづく痛みとしてそこにあることに、断片的ながらも想像がめぐる。

「サハリン州立郷土博物館」に展示されている樺太アイヌの衣服「サハリン州立郷土博物館」に展示されている樺太アイヌの衣服=撮影・筆者
 先住民族、流刑者、移住者、独ソ戦や日ソ国境の兵士たち、引き揚げ者、残留日本人、残留朝鮮人、粛清による死者、大震災の被災者、出稼ぎ者――短い滞在の浅い見聞によるものだが、この島に暮らしてきたさまざまなひとたちのことが、これまでとはちがう輪郭をもって胸に刻まれた。多彩なルーツを持つ顔立ちのひとびとが行き交うサハリンで、歴史は本のなかだけではなく、いまここにこそあるのだと感じた。

 著者の方のサハリン行きに便乗しての金カム聖地巡礼の旅だったが、じつは、これからの新しい本への伴走を視野に入れての旅でもあった。

 著者――ノンフィクション作家の梯久美子さんは、サハリンへ流刑となったポーランドの独立革命家にして、樺太アイヌと深く親交を結んだ民族学者、ブロニスワフ・ピウスツキ(1866-1918)についての執筆を準備されている。サハリンと日本、そしてポーランドをつなぐ、旅の記憶を交えた壮大な人物伝の誕生を、期待とともに予感している。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。