【3】「戦争を知らない子供たち」 「坊や大きくならないで」
2019年11月11日
2回にわたって記した70年万博が開催された大阪府吹田市千里の地からは、「こんにちは」を連呼する〝究極の笛吹歌〟以外に、もう一つ、戦後歌謡史に残る歌が生まれた。
「戦争を知らない子供たち」である。
万博を盛り上げるべく、開催期間中の動員がもっとも期待される夏休みに企画された「全日本アマチュアフォーク・フェスティバル」で、3千人もの聴衆を前に、統一テーマ曲として披露された。
北山に救いの手を差し伸べ作曲を引き受けてくれたのは、同じ京都の大学生フォーク仲間だった杉田二郎(北山は京都府立医科大、杉田は立命館大)。加藤と違って北山の詞に素直に共感、出来上がったのは、どこか「こんにちは」を連呼する〝万博の笛吹歌〟にも似た軽快なメロディ。それまでの反体制的なフォークとは一線を画した、ひたすら明るいたたずまいで、それは万博にうかれる国民の気分とも符合していた。
おそらくそれが受けたからなのだろう、「戦争を知らない子供たち」は、国家の威信をかけたイベントが半年間に6421万人余を動員して大成功のうちに終了した2カ月後、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされ、翌年2月、作曲者の杉田二郎が森下次郎とユニットを組んだ「ジローズ」の歌でリリースされるや、累計売り上げ30万枚を超えるヒット曲となった。「ジローズ」はその年の第13回日本レコード大賞新人賞、北山修も作詞賞を受賞。さらに翌72年公開の映画「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」の挿入歌にもなって、さらなる話題づくりと売り上げ増進に一役買った。
もし加藤和彦が作曲を引き受けていたら、岡本太郎が太陽の塔の裏側に仕掛けたような〝ハンパク・ソング〟になっていたかもしれず、そうだとしたら、おそらく戦後歌謡史に残る大ヒット・フォークとはならなかったのではないか。
北山修は、「戦争を知らない子供たち」がお披露目された前述の万博のイベントで、司会をつとめ、唄に託した想いを聴衆にこう語った。
「ぼくらが戦争を知らない子供たちというだけでなく、ぼくらの子供たち、さらにその子供の子供たちが戦争を知らない子供たちであってほしい」
それは北山の偽らざる心情と願いであったろうが、「当時の世界の現実」からすると、〝平和ボケの戯言〟でしかなかった。1965年の米軍の北爆による軍事介入でベトナム戦争は泥沼化、日本の基地はその後方兵站支援を担い、横田や立川の基地にはベトナムから運ばれた米兵の死体が日本人アルバイトによって〝清浄処理〟されて本国へ移送され、その現実にすくんだ米兵たちの脱走が相次いだ。
いっぽう前々年の日大、前年の東大安田講堂攻防戦で発火した若者の反乱が燎原の炎のごとく燃えさかり、多くの大学でバリケードが築かれた。そんな怒れる若者たちにとって、「戦争を知らない子供たち」は、目の前の「戦争」から目をそむけた軟弱な〝半体制フォーク〟でしかなかった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください