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反戦フォークは自衛官の卵たちの愛唱歌だった!?

【3】「戦争を知らない子供たち」 「坊や大きくならないで」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

〝反戦〟フォークが70年万博の統一テーマ曲に

 2回にわたって記した70年万博が開催された大阪府吹田市千里の地からは、「こんにちは」を連呼する〝究極の笛吹歌〟以外に、もう一つ、戦後歌謡史に残る歌が生まれた。

 「戦争を知らない子供たち」である。

 万博を盛り上げるべく、開催期間中の動員がもっとも期待される夏休みに企画された「全日本アマチュアフォーク・フェスティバル」で、3千人もの聴衆を前に、統一テーマ曲として披露された。

ジローズ「戦争を知らない子供たち」 作詞:北山修、作曲:杉田二郎
 「戦争が終わって僕らは生まれた 戦争を知らずに僕らは育った」「僕らの名前を覚えてほしい 戦争を知らない子供たちさ」。〝万博の笛吹歌〟の「こんにちは」ほどではないにしても、こちらも「戦争」が連呼されるところでは同工異曲のジングル・ソング、内容も万博のコンセプトである「人類の進歩と調和」にマッチしている。

 作詞を依頼されたのは北山修。その3年前に加藤和彦らと「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成、「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットで、関西フォークの源流を創った一人である。

 しかし、この歌が世に出るのにはいささかの軋轢と曲折があった。当初、北山の生涯の友人でもあった加藤和彦に詞を見せて作曲を依頼、二つ返事で受けてもらえるものと思っていたところが、拒絶されたのである。外見も態度も柔和な紳士然とした加藤だが、後の「自死」が物語るように非妥協的な完璧主義者であり、おそらく大阪万博のもつ〝危うさ〟に協力することに強い違和感を覚えたからではないだろうか。

レコード大賞の新人賞と作詞賞に

 北山に救いの手を差し伸べ作曲を引き受けてくれたのは、同じ京都の大学生フォーク仲間だった杉田二郎(北山は京都府立医科大、杉田は立命館大)。加藤と違って北山の詞に素直に共感、出来上がったのは、どこか「こんにちは」を連呼する〝万博の笛吹歌〟にも似た軽快なメロディ。それまでの反体制的なフォークとは一線を画した、ひたすら明るいたたずまいで、それは万博にうかれる国民の気分とも符合していた。

 おそらくそれが受けたからなのだろう、「戦争を知らない子供たち」は、国家の威信をかけたイベントが半年間に6421万人余を動員して大成功のうちに終了した2カ月後、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされ、翌年2月、作曲者の杉田二郎が森下次郎とユニットを組んだ「ジローズ」の歌でリリースされるや、累計売り上げ30万枚を超えるヒット曲となった。「ジローズ」はその年の第13回日本レコード大賞新人賞、北山修も作詞賞を受賞。さらに翌72年公開の映画「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」の挿入歌にもなって、さらなる話題づくりと売り上げ増進に一役買った。

 もし加藤和彦が作曲を引き受けていたら、岡本太郎が太陽の塔の裏側に仕掛けたような〝ハンパク・ソング〟になっていたかもしれず、そうだとしたら、おそらく戦後歌謡史に残る大ヒット・フォークとはならなかったのではないか。

反戦活動家には不評の〝半戦歌〟

 北山修は、「戦争を知らない子供たち」がお披露目された前述の万博のイベントで、司会をつとめ、唄に託した想いを聴衆にこう語った。

 「ぼくらが戦争を知らない子供たちというだけでなく、ぼくらの子供たち、さらにその子供の子供たちが戦争を知らない子供たちであってほしい」

 それは北山の偽らざる心情と願いであったろうが、「当時の世界の現実」からすると、〝平和ボケの戯言〟でしかなかった。1965年の米軍の北爆による軍事介入でベトナム戦争は泥沼化、日本の基地はその後方兵站支援を担い、横田や立川の基地にはベトナムから運ばれた米兵の死体が日本人アルバイトによって〝清浄処理〟されて本国へ移送され、その現実にすくんだ米兵たちの脱走が相次いだ。

 いっぽう前々年の日大、前年の東大安田講堂攻防戦で発火した若者の反乱が燎原の炎のごとく燃えさかり、多くの大学でバリケードが築かれた。そんな怒れる若者たちにとって、「戦争を知らない子供たち」は、目の前の「戦争」から目をそむけた軟弱な〝半体制フォーク〟でしかなかった。

新谷のり子「フランシーヌの場合」 作詞:いまいずみあきら、作曲:郷伍郎
 それよりも彼らの心をつかんだのは、2年前の1968年に高田渡がうたった「自衛隊に入ろう」(原曲はアメリカの反体制フォークの草分け、ピート・シーガー)であり、前年の69年にパリで焼身自殺をしてベトナム戦争に抗議した少女に題材をとった新谷のりこの「フランシーヌの場合」(作詞・いまいずみあきら、作曲・郷伍郎)であった。

 そんな甘っちょろい唄が歌えるかと苦々しく思っていた当時の怒れる若者たちは、PANTA(頭脳警察)が、羽田闘争や三里塚の成田空港反対闘争を題材に「戦争を知らない子供たち」をいじってみせた替え歌「戦争しか知らない子供たち」に、快哉を叫んだに違いない。こんな
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