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『いだてん』田畑も世話になった、子供と原稿用紙

大河ドラマが描いた/描かなかった朝日新聞社 その3

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

太陽マークの社章の歴史

「いだてん」と朝日新聞拡大1879年(明治12)1月22日に大阪府に提出した事件取材方御願
 「いだてん」では、こうしたザラ原の束を美術スタッフが再現していたのだが、写真で示したザラ原の束は、朝日新聞大阪本社の社史編修センター書庫に保存されているものだ。背には、水平線から半球をのぞかせ、光を放つ太陽のマークを印刷した薄紙が貼られている。

 これは、朝日新聞が1879年(明治12)に大阪で創刊した時から使っている社章だ。

 同年1月22日、朝日新聞は大阪府に、創業者の村山龍平名で、警察が関係する事件や事故の現場に記者が立ち入ることを許可してほしいという願いを出している。その中に「別紙写の通目印」として「小旗幷提灯」を携帯するとしている。つまり、現場には、朝日新聞の関係者である印として、別紙の通りのマークを付けた小旗や提灯(ちょうちん)を持っていきます、というただし書きだ。

「いだてん」と朝日新聞拡大袖に社章を付けた服を紹介する1881年(明治14)12月25日朝日新聞4面の社告
 その「別紙写」や現物の提灯は保存されていないが、「朝日新聞社史 資料編」は、旭光に朝の字を染め抜いた意匠をあしらった提灯の画像を掲載している。

 1880年(明治13)9月8日に大阪府知事に出した「出火ノ節人足火事場へ立入御願」では「社の印を附したる法被を着させ」とあり、翌81年(明治14)10月27日紙面の「政談大演説会」の記事中には「三社(朝日と他の2社を指す)の徽号を印せし紅毬燈を」という記述がある。そして同年12月25日と27日の朝日新聞4面の社告には、「旭日(あさひ)の徽章(しるし)ある洋服を」の記述と図版 が記載されている。それと前後して、販売店の看板、販売員の帽子、輸送車の荷台などにも使っていた。

 朝日新聞の「社旗」は、この社章を左右に分割したデザインだ。右方向に光が放射しているのを東京本社と北海道支社で、左方向に放射しているのを大阪、西部、名古屋の各本社で使ってきた。東京朝日新聞は1888年(明治21)7月10日に創刊しており、その後しばらくしてから左右に分割した社旗が使われるようになったものと推定されている。

 ただ、左右分割した社旗も、分割していない社旗も、ともかく現段階で筆者が確認できている社旗の最初期の写真は、1904(明治37)年2月8日、日露開戦で大阪・蔵屋敷の朝日新聞社屋前で気勢を上げる人たちを写したものだ。赤地らしい円に白らしい「朝」の文字が入り、周囲に放射光をあしらった旗が写っている。

「いだてん」と朝日新聞拡大1904年(明治37)2月8日、日露戦争開戦に対して気勢をあげる市民たち=大阪朝日新聞前

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

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