メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

『いだてん』田畑も世話になった、子供と原稿用紙

大河ドラマが描いた/描かなかった朝日新聞社 その3

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

様々に使われた社旗

「いだてん」と朝日新聞拡大1915年(大正4)10月10日に夕刊発行の祝賀宣伝で、販売関係者たちが社章をあしらった旗で行列をした。後ろは大阪朝日新聞新築中の仮社屋

 社章が旗という形になって、使用する機会は格段に増えた。

 甲子園球場での野球大会など社の主催事業の会場に張り出し、社内でも新年会や創刊周年記念行事などで掲げた。万国旗ではなく、すべて社旗で飾ったイベントもあった。自動車を取材に使うようになると、社旗をはためかせて現場に走っていた。

 戦争のとき、朝日新聞の同僚たちが寄せ書きをした社旗を持って兵士として戦場に赴いた人たちも多い。

 1932年(昭和7)1月、満州事変から数カ月後の社内報には、こんな見出しの記事もある。


「偽降戦法」を防ぐ 紅ゐの朝日社旗

(要旨)最初は白旗で投降するかと見せかけ、それが奏功しないとなると日章旗を翻して欺こうとする敵兵の戦法に、日本軍は多数の犠牲を出した。このため、日章旗は必ず2本を翻すようにと各旅団が全軍に訓示したが、そのようななかで、朝日新聞の社旗は一見して日本のものと知れるので、味方の識別に役立っている。

 社旗を押し立てて攻め入ったわけでは、決してない。軍隊という組織で私企業の旗を軍旗の代わりのように使うことなど、許されないことだ。

 これは、敵味方が膠着していた状況の中で、2本目の日章旗の代わりに、社旗が使われたという話だろう。部隊の中に朝日出身の兵士がいて、彼が持参していた社旗だったのだろう。社報の記事は戦意高揚をはかるような書きぶりなのだが、このころはすでに戦死した同僚たちもいた。文字面の通りに受け取るよりは、情報統制のなかで、戦場の実態を伝えようとした記事だったと考えられる。

 戦場で持ち主の手を離れ、まわりまわって日本に戻ってきた社旗もある。今日でも、アメリカのネットオークションに、日本軍の旗であるかのように誤記された社旗が出品されることがある。

 次回も史実とフィクションをめぐる報告を続けますが、前回11月2日正午公開の記事は、同夜10時25分ころに、一部改訂しました。その前にお読みになった方は、改めて目を通していただければ幸いです。主な改訂は、二・二六事件の時、東京朝日新聞の社内で働いていた女性エレベーター係への言及です。当時のことを、以下にもう少し補足します。

昭和初期のエレベーター係

 東京朝日新聞社は1927年(昭和2)3月20日に有楽町に移転した。新ビルには4基のエレベーターがあり、14人の男性の「エレベーター運転手」がいた。若い人は「エレベーターボーイ」とも呼ばれた。34年(昭和9)4月から5月にかけ、その一部が5人の女性と入れ替わった。当時の呼び名は「エレベーターガール」。二・二六事件の日は、そのうちの1人が朝8時に出勤していた。

 緒方竹虎が二・二六事件で東京朝日新聞を襲撃した将校と対面した時、3階の編輯局から1階の玄関までの行き来に利用したエレベーターは彼女が操作した。緒方は後年の回想で、そのエレベーター係の女性について「感心した。実に落ち着いていたので、私もだいぶん気が鎮まった」と述べている。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

前田浩次の記事

もっと見る