大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者、田畑書店社主
1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
“ポスト2020”を前に、廻ってはいけないカーブを廻った……
厚顔といえば、出版界におけるこの夏の一連の出来事は、5月の連休明けあたりから出来していた幻冬舎問題から地続きに起こっていることを忘れてはならない。これもツイッター上におけるやりとりが端を発していて、幻冬舎社長である見城徹氏が、自社から出した百田尚樹氏の『日本国紀』をめぐる作家・津原泰水氏とのやりとりのなかで、同著がウィキペディアからのコピペを多用していることを取り上げて批判する津原氏に対して、やはりかつて自社から出版した氏の本(『音楽は何も与えてくれない』)の実売部数を晒して攻撃したというものだ。
その行為の不当さは当事者である津原氏のみならず何人かの作家や編集者が名乗って非難したとおりだと思うし、百田尚樹氏と『日本国紀』の酷さを取り上げて論ずるのも退屈なのでやめるが、ひとつだけ今回の出来事が出版史上に遺す疵(きず)について述べれば、それは幻冬舎という出版社が、「紙の本」がもつ信頼性を自ら放棄したということに尽きる。
それは実に単純なことで、いったん校了し発行した書籍の内容を改変した場合は、「第二版 初刷」、「第二版 2刷」「第三版 初刷」「第三版 2刷」……というように、「版を改める」という標(しるし)を奥付に残さなくてはいけないのだが、『日本国記』においてはそれをしなかった。読者や識者から指摘を受けるたびに、まるで単純な誤植を直すかのようにコソッと訂正して重版を重ねた。けれどもそれは明らかに誤植とは次元を異にする「内容の改変」である。
その行為は人手をかけコストをかけてでも「紙の本にする」べき言葉の価値、言葉の重量を自ら軽んじてしまったことになる。
この問題でもうひとつ気になることがある。それは出版社勤めのサラリーマン編集者を経験した身だからこそ想像に難くないのだが、幻冬舎内部、あるいは著者群も含めての関係者の間に、明らかな「分断」があった、あるいは少なくとも「内面の分断」があったのではないか、ということである。
というのも漏れ聞こえてくる関係者の言葉からは、「せっかくのベストセラーの売れ行きをなんで邪魔する?」という販売サイドからの当然の圧力と、有無を言わせぬ同調圧力を強く感じるからだ。口には出せない……だから「内面の分断」なのである。そしてこの「分断」は、幻冬舎のみならず、出版社を含むあらゆる言論機関、ひいては日本全国の企業社会に蔓延しているのではないか。
「分断」といえば、やはりツイッター上のことになるが、この夏、忘れられない言葉に出会った。それは小沢一郎氏の次のようなツイートである。
「政権がここまで空気を変えた例もまた珍しい。何より社会の分断が進み、異なる意見を持つ人々の対立が深まり、『憎悪』が前面に出るようになった。醜いヘイトも随分増えた。こうした中、政権は社会の統合を図るというより、一つの価値観を押し付けようとしているように見受けられる。非常に危険である」(2019/9/8)
一見、何も特別なことを言っていないように思えることそれ自体が恐ろしい。どうやら無痛症にかかってしまったようだが、しかしこの言葉が意味していることを噛みしめると、つくづく恐ろしい。またこの言葉が、政治の世界の表舞台も裏舞台も熟知している小沢氏の口から(おそらくは吐息混じりに)ポソッと出ているところが、また恐ろしい。
なるべく「異なる価値観」を容れぬこと。すなわち「精神の鎖国状態」にこの国はもう入ってしまっているのではないか。そんな国で行うオリンピックとは、いったいどういうものになってしまうのだろう。