メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

プラシド・ドミンゴはオペラ界のゴッドファーザー

「世界で最も忙しい男」にふってわいた「Me Too」騒動。これもまた運命なのか?

石戸谷結子 音楽ジャーナリスト

オーケストラをバックに歌うプラシド・ドミンゴ ©堀田力丸

 「怖いのは自分自身の極限を見ることです」

 いまから30年も前、プラシド・ドミンゴにインタビューしたときのこと。歌手として絶頂期を迎えていた世界のスーパースターから、こんな意外な言葉が返ってきた。向かうところ敵なし。歌手としてのみならず、指揮者としても引っ張りだこの超人気で、誰もが彼の「永遠」を信じていた頃だ。

「ぼくは運命を信じている」

 神から類まれな美声を授けられながらも、日々たゆまぬ精進を続け、オペラ界の頂点に登りつめたドミンゴは、人一倍明晰な頭脳を持つゆえに、自分の人生を客観的に見ることができる。

 「毎日、自分自身と闘っています。いつも自分を向上させなくてはいけないから。ぼくは運命というものを信じています。自分のところに来た運命ならば、それをすべて受け入れて、運命に従って行動していきたいのです」

 あれから幾星霜が経ったいま、ドミンゴが直面している困難な運命を、誰が予想しただろう。それでもドミンゴは、「運命を受け入れる」ことが出来るのだろうか。

ふってわいた「Me Too」騒動

プラシド・ドミンゴ ©Greg Gorman
 この夏、ドミンゴにふってわいた「Me Too」騒動が世界中を駆け巡った。30年以上も前の出来事は、もう藪の中だ。

 しかしアメリカではフィラデルフィア管弦楽団がドミンゴの降板を発表したのを皮切りに、それまでトップ・スターの座にあったメトロポリタン歌劇場をはじめ、総監督を務めていたサンフランシスコとロサンゼルスの歌劇場まで、ドミンゴの降板を発表している。それらの歌劇場がトラブルに巻き込まれることを懸念したドミンゴが、自ら身を引いたというのが真相のようだ。

 いまだ疑惑の域を出ていない騒動を、ことさらに騒ぎ立てるアメリカに対して、ヨーロッパの歌劇場は大人の対応をしている。今夏のザルツブルグ音楽祭では、8月25日と31日、盛大な拍手に迎えられてドミンゴが登場、ヴェルディのオペラ「ルイザ・ミラー」の公演が行われた。10月17日にはモスクワの7500人収容のクロッカス・シティ・ホールでのコンサートに出演して、大喝采を受けた。

 アメリカではオペラハウスのキャンセルが続いているものの、今年だけ見ても、スカラ座やハンブルグのエルブ・フィルハーモニー・ホールでのコンサート、ウィーン国立歌劇場やベルリン国立歌劇場でのオペラ公演など予定がぎっしりで、すでにソルドアウトが続いている。来年のオペラ公演も12月までの予定が発表されている。

150以上のオペラの主役をこなす語学の天才

 ドミンゴはいま78歳。来年の1月には79歳を迎える。3大テノールの一人、ルチアーノ・パヴァロッティはすでに鬼籍に入り、もう一人のホセ・カレーラスもオペラの舞台から引退して久しい。しかしドミンゴだけは、いまも第一線のオペラ歌手として、華やかな舞台に立ち続けている。

 輝かしい高音はいまも健在だが、2009年からは新しい地平であるバリトンの声域に活動を移し、次々と新しいレパートリーを開拓しているのだ。新しい楽譜を読み込み、歌詞を暗記し、演技を体に覚え込ませる。70歳を目前にしての新分野への挑戦は、驚異的な記憶力と日々の鍛錬なくしてはありえない。

 テノールとして活躍した50年間のレパートリーは120以上。そこに、バリトンの役が30ほど加わった。一人で150以上の主役をこなす歌手は、オペラ史上他には見当たらない。

 スペイン、イタリア、フランス、英語やロシア語のオペラだけでなく、ワーグナーもレパートリーに加えており、語学の天才でもある。さらに若い頃から指揮を学び、1973年にはニューヨークのシティ・オペラで「椿姫」を指揮して指揮者デビューを果たした。以後メトロポリタン歌劇場、英国ロイヤル・オペラ、ウィーン国立歌劇場など一流歌劇場の指揮者として大活躍している。

 2018年には、念願だったワーグナーの聖地バイロイト音楽祭での指揮者デビューも「ワルキューレ」で果たした。この絶大なパワーと膨大なエネルギーはどこからくるのだろう?

「音楽が私にパワーをくれる」

 “If I rest, I rust”

 ドミンゴの活動を伝えるホームページには、最初にこんな言葉が掲げてある。ある日、訪れた中華レストランのクッキーの中から出て来たおみくじの文句だという。

 日本語にするなら、「もし休んだら、錆びついてしまう」(転がる石に苔は生えず)。それ以降、本人はこの言葉をモットーにしているらしい。

 30年前のインタビューで、なぜそんな過密スケジュールをこなすのか訊いてみた。

 「何十年もの間、こんなスケジュールを続けてきましたが、過密スケジュールで大変だなどと、思ったこともありません。音楽が私にパワーをくれるのです」

 ドミンゴはアーティストとしての活動に加え、組織を動かす総監督という仕事にもついていた。サンフランシスコ歌劇場は数年前に辞任しているが、今年の9月にはロサンゼルス歌劇場も辞任してしまった。

 もう一つ、世界のオペラ界に大きな功績を残してきた活動がある。1993年に自ら立ち上げた国際声楽コンクール「オペラリア」だ。現在オペラ界で活躍するスター歌手には「オペラリア」出身がかなり多い。いまでは若手歌手の登竜門として、最も権威ある声楽コンクールとして認められている。

 歌手として、指揮者として、オペラ座総監督として、コンクールの主宰者として、世界中を専用ジェット機で飛び回り、「世界で最も忙しい男」と言われるドミンゴ。

 オペラ界のゴッドファーザー。

 そう呼んで誰からも異論は出ないだろう。

歌うプラシド・ドミンゴ ©堀田力丸

甘い美声、輝かしい高音、深い表現力……

 恵まれた才能を生かし、多くのジャンルで活躍するドミンゴだが、やはり本領はオペラ歌手だ。しかも、たぐいまれな魅力が備わっている歌手の王様だ。

 そののびやかな美声と輝かしい高音を聴いた人は、必ずや虜になってしまうだろう。そして、年齢と共に成熟してきた甘い歌い方。オペラの主役テノールは、ほとんどが高貴な王子や恋人役なので、恋の歌を歌うのに声の甘さは必須の条件だ。

 さらに、言葉の一つ一つに想いを込める深い表現力と端正な歌い方は彼の独壇場。その上に役柄を演じる演技力まで備わっており、「歌う俳優」と言われている。

オテロといえば、まずオテロ

 150あるレパートリーの中で、ドミンゴの声とキャラクターに最も合った役は何だろう?

・・・ログインして読む
(残り:約1170文字/本文:約3965文字)