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GHQと炭坑節が戦後日本を作った!? その1

【4】赤坂小梅ほか「炭坑節」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「炭坑節」は三池炭鉱の唄ではない!?

 さて、日本人なら誰もが知っているのに、その「歌枕」の所在をほとんどの人が誤解している唄がある。そして、その誤解を誘導した「首謀者」がいるのにそれを誰も知らず、さらにその「首謀者」の意図には現在に至る戦後日本のありようが隠されているのにそれを誰も知らない、そんな「誰も知らない」づくしの唄がある。


 その「唄」とは炭坑節。そして、「首謀者」とは、GHQ、すなわち昭和20年(1945)8月15日〜昭和27年(1952)4月28日まで日本を占領統治していた、マッカーサー元帥を司令長官に戴く連合国軍総司令部である。

東京など都市部では「炭坑節」が盆踊りの定番とされているが・・・(筆者撮影)
 東京生まれで東京育ちの私は、子供の時分から、お盆になると「♪三池炭坑の上に出た」と歌いながら踊って、てっきり炭坑節は三池から生まれた唄だとばかり思って、長らく疑うことがなかった。しかし、それは間違っていた。三池炭鉱の唄ではなかったのだ。さらに、私がそう間違って覚えた裏にはGHQという「首謀者」の誘導が働いていたらしい。

 論を極めると、現在の日本は、戦後GHQが炭坑節を使って創り上げたとも言えるかもしれないのである。たかが「盆踊りの定番」と思っていた昭和を代表する民謡歌謡曲が、そんな歴史的役割を担っていたと知ったからには、気合いを入れて、GHQと炭坑節を主人公とする戦後史ミステリーを読み解いていこう。

 いままで秘されてきたその〝戦後某重大事件〟の存在を知ったのは、数年前、ある研究誌の取材で、日本を代表する三池と筑豊の両炭鉱跡を訪れたのがきっかけだった。大牟田市世界遺産登録・文化財室の市職員に市内各所の三池炭鉱関連施設を案内してもらったおりに、「こんな資料もありますが」と一枚のコピーをいただいた。

 向坂逸郎らとともに三池労組を支援した社会思想史学者で、1983年〜1995年まで3期12年福岡県知事をつとめた奥田八二が「社会問題月報」(№363、1992年12月号)に寄せたエッセイの、次のくだりが私の関心を惹いた。

 「炭鉱節(正しくは「炭坑節」だが原文ママ、筆者)でよくうたわれている文言は、私の頭にある限り、高い煙突のない『三池』でなくて、三井田川炭鉱のことである。『一山二山三山越え』というのは田川の香春岳のことだし、『香春岳から見おろせば伊田の竪坑が真正面』というくだりも、正に三井田川炭鉱そのものをさしている。だから文言の出身は田川というのが私の判断。田川の人達は『三井炭鉱の上に出た』といったに違いない。『三井』というべきなのに『三池』といってしまったのは誰か、私には答えは一つしかない。戦後の石炭至上の時代に、日本の炭鉱に指令を出していたのはアメリカ軍だ。軍の本拠地は三池におかれていた。だからアメリカ軍が『三池炭鉱の上に出た』といわせたに違いない、というのが私の推理だった」

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 もちろんここで着目すべきは、「だからアメリカ軍が『三池炭鉱の上に出た』と(ウソを)いわせた」という断定である。

 しかしながら、そのための前提がよそ者にはストンと落ちない。奥田はそもそも炭坑節は三池炭鉱を歌ったものではないと言い、資料提供者の市職員も、「奥田さんにいわれなくても、大牟田の人間はみなそう思っています」というのだが、子供の頃から「三池炭鉱の上に出た」と歌ってきた私には、そして筑豊と三池の違いもよくわからない関東のよそ者には、やれ高い煙突があるのないの、やれ山の越え方がどうのと歌詞を証拠に上げられてもピンとこない。

 と、市職員から「現地に行けば一目瞭然」といわれ、わが目で確かめるべく三池から列車を乗り継ぎ優に3時間はかけて筑豊の中心地、かつて三池と並ぶ三井の有力炭鉱で栄えた田川伊田へと向かった。

三池と並ぶ筑豊の雄だった三井伊田炭鉱の竪坑跡。ここから坑夫たちがゲージに乗って地底へと送り込まれた(筆者撮影)
煙突は竪坑から坑夫たちを地底へと送り込むためのボイラーの排煙用。昼夜をわかたず黒煙が空を覆ったという(筆者撮影)

伊田炭鉱のシンボル、香春岳とボタ山(筆者撮影)
 当地の石炭・歴史博物館を訪れると、福本寛同館学芸員に、「今ここが伊田の竪坑の跡地であれが香春岳」と指さされた。たしかに、竪坑跡の真正面のはるか遠くに香春岳が三つの山で形成されており、歌詞のとおり香春岳に行くには三つの山を越えなければ
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