憲法改正よりも喫緊の課題がある
2019年11月22日
10月4日に臨時国会が召集された。夏の参議院議員選挙で、与党は改憲発議に必要な3分の2の議席を得ることができなかったにもかかわらず、安倍首相は、今国会で憲法審査会を再開し、改憲に向けた発議までもちこむ構えのようである。
首相の「所信表明演説」は一見抑制的だったが、改憲の意図は明瞭であった(朝日新聞2019年10月5日付)。そもそもこれまで改憲の意欲をくり返し明らかにしてきたし、9月に発足した第4次安倍再改造内閣の陣容からも、それが強く感じられる。安倍政権や自民党執行部には、従来から、改憲を一大目標とする「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」の会員が多かったが、首相は今回、自民党籍の閣僚すべてをその関係者でうめた。
そして実際、国会での首相の発言に促されて、自民党・日本会議が改憲に向けた動きを加速させている。
だが、そもそもいま問題とされるべきは改憲ではない。その前にすべきことがある。
それは、「集団的自衛権」の行使は日本国憲法上許されるのかどうかに関する、確たる議論と判断である。それを満足に行わないまま、2015年に「安保法制」が強行採決された。だがその後も含めて、安保法制の評価が社会的な規模でなされたとは、とうてい言えない。いま改憲よりも必要なのは、何よりも集団的自衛権行使を容認してよいのかどうかを、国民的レベルで、つまり国民投票を通じて、決着させることである。
集団的自衛権に関わる論点を前面に出さずに自衛隊に関連して改憲の是非を問えば、自衛隊のうちに災害救助隊の役割(のみ)見る多数の国民の賛成を引き出しえようが、それは他に例を見ないほどの大きな禍根を残す。安倍首相にとって改憲の意味は、軍事力を強化し、自衛隊を海外派兵させ、隊員の血を流すこともいとわない「強い日本」(2013年2月、第2次政権施政方針演説)にすることであるから。
「強い国」にふれた演説で首相は、福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」に言及したが、この標語で福沢が意味したのは、「国のためには財を失うのみならず、一命をも抛(なげうち)て惜しむに足らず」という「報国の大義」の主張なのである(『学問のすゝめ』岩波文庫、33頁:杉田『天は人の下に人を造る――「福沢諭吉神話」を超えて』インパクト出版会、80-83頁)。「強い国」において今後国民――当面は、それは自衛隊員であろう――は、自らの命を差し出すよう求められるだろう。
一方、自衛隊に関していま問われるべきは、「防衛計画の大綱」、「中期防衛力整備計画」、米軍との一体化を通じて、そして何よりも集団的自衛権行使を容認する「安保法制」(そしてこれを踏まえたさらなる防衛力整備・米軍とのさらなる一体化)を通じて、自衛隊はもはや以前の自衛隊とは全く異なった存在となったという事実である。
この現実を踏まえれば、いま問われるべきは、ただ抽象的に理解された「自衛隊」なる文言を条文に書きこむ改憲いかんではなく、自衛隊を一変させた集団的自衛権行使の容認いかんである。
安倍政権は今後、集団的自衛権の全面的な行使容認につながるという本質を隠したまま、改憲発議・国民投票を行おうとするであろうが、その前に、そもそも集団的自衛権の行使容認それ自体を許すのかどうかが、国民投票によって判断されなければならない。
日々の国際ニュースに接していればわかるが、世界各国で、主要政策をめぐって国民投票がしばしば行われている。だが日本は、国民投票によって主要政策の適否を判断するという制度がない、世界的に見てもめずらしい国である。
本来、民主制を徹底させれば直接民主制に行きつく。民主制の核心をルソーは、国民peupleの平等と自由とを同時に実現することと解するが、そのためには、国民自らが一般意思(総意)の形成および立法に直接関与しなければならない(ルソー『社会契約論』岩波文庫、29-30、133頁)。国家の規模が大きければ、それは困難であることをルソー自身も認めるが(同前136頁、211頁訳注)、しかし直接民主制的な制度を可能なかぎり取り入れる努力は、近代民主国家にとって不可欠である。
なるほど日本にも「国民投票法」があるが、それが想定しているのは憲法改正に関する国民投票にすぎない。だが、改憲にいたる以前に、改憲に匹敵する大転換が政治的に図られる場合には、それは国民投票にかけられるべきであろう。
問題は「安保法制」である(それ以前の関連諸法も問われるべきだが、いまはこれに限定する)。そこでの焦点は、
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