前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
大河ドラマが描いた/描かなかった朝日新聞社 その5
1936年(昭和11)の二・二六事件では、政府要人たちを殺害した兵士たちの一部50人ほどが、2月26日の午前9時ころ、東京朝日新聞社を襲撃した。NHK大河ドラマ『いだてん』で描かれたその襲撃シーンをめぐって、報告する。
早朝5時半ころ、大蔵省営繕管財局総務課長の家に、高橋是清蔵相が殺害されたとの知らせが入る。その妻が夫の弟である東京朝日新聞の整理部員に、部員は整理部長に、そして整理部長が幹部と社の宿直室に連絡し、社員たちの非常召集が始まった。
電話と電報を受けて駆けつけた社員たちがそれぞれの持ち場につき、外回りの記者たちがさまざまな情報を入れていた午前9時ころ、社の外に来ていた兵隊たちが社内に入ってきた。
守衛係が連絡してきた。「将校が社のいちばん偉い人に会いたいと言っています」。編輯(へんしゅう)部門のトップだった主筆の緒方竹虎が、3階の編輯局から1階の玄関に向かった。
ドラマでは、リリー・フランキー演じる緒方竹虎は、将校がポケットをまさぐった時に、背中を相手にくっつけるようにして将校の胸元に飛び込み、それから名刺を渡した。双方の表情がカメラに収まり、緊迫感も高まる演出だった。
実際には緒方はそこまでの動きはしていない。だが、戦後の回想座談の記録では「僕は、もし相手がピストルを向けようとしたら、手もとに飛び込んでそれをたたき落としてやろうと用心していた」と語っている。
玄関まで緒方に同行したという社会部記者の磯部佑治(筆名・佑一郎)は1966年の社内報でこう回想している。
青年将校が、銃剣の兵2名を連れてツカツカと近寄ってきた。右手にピストルを持ち、左手に巻紙らしいものを持っていた。その将校と緒方主筆はごく近接して相対した。
「私が緒方ですが」と言いながら、緒方さんは名刺と共に「社の代表者です」と付け加えた。(中略)名刺をポケットにおさめた青年将校は、一、二歩下がり、瞬間後方を振りかえった。射つなというのを、表情で言ったかのように覚えている。
この緒方と青年将校の対峙については、緒方と磯部の回想に食い違いがある。緒方は一人で玄関に向かったとし、磯部は緒方に一緒に来るように言われたという。
また前々回、エレベーター係のことを紹介したが、緒方に「落ち着いている」と感心されたその係・菊地滋子は1961年の社内報で、緒方の記憶とは違う回想をしている。
緒方さんは私のエレベーターで3階からおりられたようにお考えになっていらっしゃいますが、私が運転したのは3階へあがられるときだけでした。
菊地は、落ち着いていたのではなく、「反乱軍がきたことを全然知らなかった」ので「ふだんと変わらず、ご用の方がおいでになるまでエレベーターの中におっただけのことです」と語っている。
誰の、どの記憶が正しいのか、検証は困難だ。緒方は1956年に死去しており、磯部と菊地の証言を緒方に確認することもできなかった。
ただ、緒方は命を失う覚悟もして将校と向き合い、磯部は宿直の時から事件対応に走り回り、菊地は同僚たちがいなくなっていることに戸惑っていた。
みな、異様な状況下にあったのである。
この連載で何回か紹介しているが、熊倉正弥著『言論統制下の記者』でも、戦後、衆議院内の朝日新聞の部屋に緒方が来て、熊倉の先輩記者と雑談していたときの言葉を記している。
私(熊倉)が耳をすましていると、緒方は「自分はあの時は沈着どころか、背中で階段をおりたんだよ」と微笑しながらいった。腰をぬかしたという意味だろう。私はこの言葉に敬服したのである。