自衛隊を「違憲」にしたのは安倍政権。集団的自衛権の違憲性を国民に問うべきだ
2019年11月26日
私は前稿で、いま重要なのは改憲に関する国民投票ではなく、集団的自衛権行使容認の是非を問う国民投票であると論じた。そして、安倍首相がもちだす改憲理由はまともな理由になっていない、と。そのうち第3の理由を引きつづき問題にし、もし安倍政権が野党勢力の一部をも取りこんで改憲発議を行い、実際に国民投票が行われたら、何が起こるかについて論じて、前稿の論点を補強する。
首相がもちだす改憲理由の第3は、「自衛隊を違憲と見る憲法学者・政党がある」という言い分である。
だがそもそも、法解釈論の立場から自衛隊が違憲と判断されるのは、ある意味で当然である。第9条第1項は戦争と同時に「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄するのみか、第2項では「戦力」「交戦権」自体を放棄・否認しているからである。
とはいえ、安全保障という国の根幹に関わる問題は、第9条のみによってではなく、日本国憲法全体から判断されなければならない、という点も重要である。第13条は「国民」(正確には日本国の主権下におかれた人全般)に保障される人権を包括的に「生命、自由及び幸福追求」と規定しているが、これを保障するために、急迫不正の侵害に対して、個別的自衛権はもちろん、必要にして最小限度の実力組織を保持することまでは否定されない、と解釈可能である。実際憲法学者でこの説を支持する人も少なくない(木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』晶文社、81頁)。
そして国民の多くもまたそれに同意するであろう。少なくとも、自衛隊の合憲・違憲性いかんは、今日の政治的な焦眉の課題にはもはやなっていないし、焦眉の課題にする必要もない。
問われるべきは、個別的自衛権の行使ということで基本的に懸案を処理しうるにもかかわらず、安倍政権が第1次政権以来、周到に外堀をうめつつ、「防衛計画の大綱」「中期防衛力整備計画」をさだめ、そして2015年5月に集団的自衛権の行使を可能とする「安保法制」を閣議決定して、衆参両院でそれをわずか数か月後に強行採決したという事実である。
これはいったい何を意味するのか。それは、国民間にすでに定着した自衛隊を、攻撃型武器・装備、恣意的な海外派兵の可能性を含めて違憲の疑いが濃い存在にしたのは、したがって憲法にその名を書きこまなければもはや深刻に自衛隊の違憲性が問われる事態を出来させたのは、ほかならぬ安倍政権だということである。
自ら自衛隊を違憲の存在にしておいて、それを解消するために改憲するというのは、本末転倒もはなはだしい。
さて、国民投票によって改憲の是非が問われたら、何が起こるか?
改憲案が否決されたなら、安倍政権による集団的自衛権行使容認に関わるこれまでの立法・国家安全保障会議決定・閣議決定も含めて否決された、と考えるべきである。
首相は、「否決されても自衛隊が合憲であることは変わらない」、「肯定されても自衛隊の任務、権限は変わらない」と述べた(半田滋『安保法制下で進む! 先制攻撃できる自衛隊――新防衛大綱・中期防がもたらすもの』あけび書房、21頁; ならば、なんのために膨大な税金を使って国民投票をするのかについて根本的な疑念があるが、この点は今はおく)。
なるほど「自衛隊が〔そもそも〕合憲であることは変わらない」と見なしてもよい(後述)。だが現在の自衛隊はそうではない。攻撃的装備を有し、集団的自衛権を行使する自衛隊は違憲の可能性が非常に高いが、それを決定的にしたのは、安倍政権による安保法制等の制定である(前稿)。とすれば、自衛隊=合憲化をめざす改憲案が否決されれば、安保法制の中核的部分、すなわち自衛隊による集団的自衛権の行使容認自体が否決された、と判断すべきであろう。
一方、改憲案が可決されたらどうなるのか。政治的・社会的な影響は計りしれない。
まず自衛隊(制服組)は、
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