前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
⼤河ドラマが描いた/ 描かなかった朝⽇新聞社 その6
1936年(昭和11)の二・二六事件。政府要人を殺害した兵士たちが次に向かったのは、報道機関6社だった。その最初が東京朝日新聞。社内にまで踏み込んで襲ったのは朝日だけだった。
NHK大河ドラマ『いだてん』では、剣付き銃を構えて突入してきた兵士たちが社員たちを追い出していた。その時、そしてその後、社員たちはどんな思いでいたのだろう。
朝日新聞の社史編修センターは、古びてシミやクリップのサビで汚れたB6判ほどの紙の束を、小さめの段ボール1箱分、保存している。
紙は本連載でも紹介した「ザラ原」で、ほとんどは鉛筆で走り書きされ、「禁止」「のせてはならぬ」などと赤く書き込まれたものも少なくない。
これは、二・二六事件発生の26日朝から、反乱兵士たちが帰順した29日まで、記者たちが取材した情報・原稿や社内の動きを、東京朝日新聞から大阪朝日新聞・九州支社・名古屋支社に、電話と電信で連絡したものだ。連絡担当部門では「原稿の読みがら」または「電がら」と言っていた。
要人の殺害または無事情報、警視庁や宮城ほか各地の状況。
そうした情報・原稿が26日の午前7時50分ころから続々と送信されていった。「禁止」などは、送信はするが紙面には載せるなという指示だ。
そして送信が、9時過ぎにいったん途絶える。襲撃され、係も社外に退去したからである。
送信が再開されたなかに、「行政 大朝へ 十時スミ」と付記がある1通がある(「行政」とは、社内連絡のこと)。読みやすく補ったうえで記すが、次のような内容だ。
26日午前8時半、憲兵隊の坂本東京隊長が東京朝日新聞社員に事件の記事は厳禁と告げた。9時には憲兵隊の私服2人が東京朝日新聞社に来て社会部員と、続いて緒方竹虎主筆と会見した。と同時刻に、兵士の一隊が社の前に機関銃を据え、一部が社内の編輯(へんしゅう)局に来て、社員一同の退社を命令、印刷部の活字棚をひっくり返し(輪転機その他異状なし)、社員一同は(隣の)ニューグランドその他に一時待機した。同9時半、兵士の一隊が引き上げ、社員一同は直ちに社にとって返し部署についた。
東京朝日襲撃の第一報である。活字棚や輪転機のことを付記し、「避難」を「待機」に変えるなど、手を入れた後に送信されている。
襲撃については、緒方竹虎、編輯局長だった美土路昌一、政治部次長だった細川隆元などが、それぞれの回想記に残している。社としても回顧座談会を何度か開いて多くの証言を記録し、また定年退職した人たちが社内報で当日を振り返っている。
そしてそれらを総合して、朝日新聞の社史は二・二六事件での東京朝日襲撃を描写している。
……のだが、その時の社員たちの心の内はどうだったのだろう?
それを知りたい時、社史の記述は十分ではない。
社史とは、1949年の『朝日新聞七十年小史』、1969年の『朝日新聞の九十年』、1991年社内版・1995年市販版の『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』、そして1999年の『歴史の瞬間とジャーナリストたち 朝日新聞にみる20世紀』である。
新版で旧版を修正した部分もあるが、基本的には同じ状況描写だ。
兵士が来て、その指揮者の一人に緒方竹虎が冷静沈着に対応し、社員を退去させることにした。その時兵士が乱入してきて社員は追い出され、工場では輪転機は無事だったが活字ケースがひっくり返された。まもなく兵士たちは引き上げ、社員は戻って報道・業務に邁進した。
しかし、もっと生々しい記憶、本音がある。そして実際には、26日の朝だけでなく、その後も緊迫した日々が続いていたのである。
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