2019年12月02日
前回は、クイーン、ベイ・シティ・ローラーズなど海外ロックミュージシャンのアイドル化が起こるなかで、日本でもレイジーのようなアイドル的ロックバンド、さらに「ロック御三家」が登場する流れをみてきた。今回は、その「ロック御三家」のうち、Charと原田真二がたどった軌跡をそれぞれ振り返ってみたい。
「ロック御三家」の一人Charは1955年生まれ、つまり野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの「新御三家」の3人とは同学年である。小学生の頃からギターを弾き始め、中学から高校時代には早くもスタジオミュージシャンとして活動するなど抜きんでた才能を示していた。18歳の年に金子マリらと「スモーキー・メディスン」を結成。ただ活動はライブがメインでメジャーデビューをしないまま、同バンドは1974年に解散する。
結局レコードデビューは、ソロアーティストとしてであった。1976年6月にデビューシングル「NAVY BLUE」、その3か月後にはファーストソロアルバムをリリース。だがすぐにブレークとはいかなかった。
二つの曲の違いは、「NAVY BLUE」が本人作曲によるものだったのに対し、「気絶するほど悩ましい」は作詞・作曲ともに他の作家によるものだった点である。特に詞が歌謡曲を代表する作詞家・阿久悠だったことは、意外な組み合わせとして受け止められた。
先述の経歴からもわかる通り、Charは「天才ギタリスト」としてすでにロックの世界では有名な存在だった。彼はいわば、日本のロックの本道を行く存在だった。
一方、阿久悠は、まさに当時の歌謡界の中心にいた。その手掛けるジャンルは幅広く、たとえば石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」や八代亜紀の「舟唄」のような演歌のヒット曲も数多く生み出した。それを踏まえれば、阿久がCharの曲の詞を書いたというのは、大げさではなくセンセーショナルな出来事であった。
また、阿久は『スター誕生!』(日本テレビ系)の企画、審査に携わり、アイドルの時代を切り開いた人物でもあった。
アイドル歌手とは、ある意味において“作られた存在”である。少なくとも昭和において、その傾向は強かった。そのもう一方の作る側、いわばプロデューサー的存在として中心にいたのも、やはり阿久悠だった。『スター誕生!』出身でブーム的人気を巻き起こしたピンク・レディーと阿久の関係などは、まさにその典型である。そしてこの点においても、Charのような独立独歩のロックミュージシャンは対極にあった。
だが「気絶するほど悩ましい」を歌ったとき、Charは歌謡曲の世界、ひいてはアイドル的ポジションに必然的に身を置くことになった。実際、それまでロックミュージシャンなら出演を拒否していたようなテレビの歌番組に出て歌うCharの姿は、如実にそのことを物語っていた。
阿久悠は、「初対面のチャーの生意気さが気に入った」と後に振り返っている(阿久悠・和田誠『A面B面――作詞・レコード・日本人』、170頁)。だがCharの側には、前回でふれたレイジーとも共通する自らの音楽的志向と歌謡曲路線とのあいだでの葛藤があったに違いない。そして結局彼は、阿久の作詞曲を何枚かシングルで出した後、自分のホームであるロックの世界に戻っていった。その揺れは、ロックが大衆化していくちょうど過渡期にCharがいた証しだと言えるだろう。
彼の所属レコード会社はフォーライフ・レコード。この会社は、1975年にフォーク歌手の吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるが主体となって設立された。
当時は歌手、それもフォーク歌手が自らレコード会社を作るというのは革命的なことだった。なぜなら、従来レコード会社は大きな企業の主導で経営されるものであり、歌手はあくまで契約してもらう側だったからである。しかもフォーライフ・レコードは、誰もが認める人気アーティストである拓郎や陽水、そこに大物の小室、泉谷が加わり、設立当初にはすでに既存の大手レコード会社に対抗しうる勢力であったため、そのインパクトは大きかった。フォーライフ・レコードの設立は、芸能史における“事件”だった。
しかし、船出はしてみたものの経営は軌道に乗らなかった。とりわけ新しい音楽の波を起こそうとしたにもかかわらず、有望な新人アーティストの発掘はままならなかった。
そこに彗星のごとく現れたのが、当時広島の高校2年生だった原田真二である。
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