〈マス〉の幻想から〈個〉のリアリズムへ
2019年12月06日
オリンピックに向かって、あるいは〈ポスト・オリンピック〉に向かって、事態はつるべ落としのごとく悪化の一途を辿っているように見える。オリンピックへのカウントダウンが、まるでこの国が沈んでいくさまを刻々と映すコマ送りの機械音のように聞こえてくる。
社会のあらゆるシステムが崩壊し始めているのだろうか。もちろんそれもあるかもしれない。が、問題はそのシステムを動かしている人倫が崩壊し始めていることだ。まさに小沢一郎氏のツイッター上の口癖である「頭が腐ると全部腐る」状態である。
前回〈出版は「恥ずかしい仕事」になってしまった⁉︎〉で、この国は「分断」され、「精神の鎖国状態」に陥ってしまったと書いた。しかし事態は、果たしてこの国に「閉ざして守るほどの精神ありや」と自問しなければならないところにまで来ているように思える。
「誇り」を取り戻す。本来の意味で。少なくともここで問題にしている「出版ジャーナリズム」に「誇り」を取り戻すにはどうしたらいいか……そのヒントは「いま、ここ」にしかないはずだと結んだ直後に、永江朗氏の労作『私は本屋が好きでした』(太郎次郎社エディタス刊)が出たと知り書店に走った。この本の副題は「あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏」である。
行間から滲み出る感情からすればまさしくこれは「怒りの書」であり、中学生の頃から書店通いを始め、好きが高じて洋書店員になり、ついにはライターとして30年あまり全国津々浦々の書店を取材して回った文字通りの「書店通」である著者からすれば、「必然の書」であるかもしれない。けれども1年ぐらいで書き上げるつもりが丸4年もかかった理由が「すっかりいやになってしまった」から、というしんどさ(これは実感としてよくわかる)を考えると、やはりこれは「労作」としか言いようがない。
前回引用した小田嶋隆氏のツイッターの言葉を借りれば、まるで(韓国や中国との)「開戦前夜」と化した書店の店頭がなぜそんなふうになったのか。そのわけをマクロからミクロまで、微に入り細にわたって著したのが本書だが、「川上から川下まで——出版界はアイヒマンか」と題した章で、次のように述べる部分がとりわけ腑に落ちた。
〈わたしが「出版業界はアイヒマンなのか」と思ったのは、個々の関係者が積極的に排外主義を広めたり、在日外国人を怯えさせたりしようと思っていなくても、「それが与えられた仕事だから」という理由でヘイト本を編集したり売ったりして、結果的に差別を拡大し憎悪を扇動することに加担しているからである。(中略)出版業界にいる人は、自分も差別の拡大と憎悪の煽動に手を貸していることを自覚すべきであり、自分の手は汚れていると思うべきだ。後ろめたさを感じていない出版業界人は信用できない〉
1961年、ナチスの親衛隊将校・アイヒマンがエルサレムで裁かれた。数百人ものユダヤ人を収容所に移送した男である。雑誌「ニューヨーカー」の依頼でその裁判の克明なレポート『エルサレムのアイヒマン——悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)を著したハンナ・アーレントは、アイヒマンが札付きの極悪人とはほど遠く、命令に忠実に従っただけの、ごく普通の小心な役人に過ぎなかったことを暴いた。
〈つくりたくもない本をつくらざるをえない編集者は、まさに自己疎外……されている、いや、している?/この自己疎外は出版業界全体を包み込むアイヒマン状態と同じだ。自分の行為について倫理的に検討することをやめ、それがもたらすものについて思いをめぐらすことを拒否し、責任を持つことを放棄している〉
書き写していて、これはこと出版業界にとどまらぬ病に思えてきた。考えてみれば、この国のどこもかしこもに「アイヒマン」が跋扈している。
この本の基調をなすのは「怒り」かもしれない。あるいはある種の「やるせなさ」かもしれない。けれどももっと底の方に流れているのは、たとえば次のような箇所に見られる確固たる信念だ。
〈本屋という仕事は、ただそこにあるだけで、まわりの社会に影響を与えることができるものなのだ——〉
これは著者がヴィレッジヴァンガード創業者の菊地敬一さんから聞いたという言葉で、そこから著者は「みずからの影響力に無自覚な本屋は本屋とはいえない」という確信を得るのだが、その下りを読んで思いを馳せたのは、この秋、東京・日本橋の「コレド室町テラス」にオープンした「誠品生活」のことだった。
オープン当初の賑わいのなか訪れた目的は、やはり「誠品書店」の品揃えや人の入りを見たかったからだが、書籍フロアの中心に平積みされていた誠品創業者・呉清友氏の評伝『誠品時光——誠品と創業者呉清友の物語』(林静宜著/横路啓子訳、誠品股份有限公司刊)を手に取って拾い読みしているうちに引きこまれ、買って帰ってすっかり読み耽ってしまった。そこに書かれているのは呉清友という稀有な実業家の経営哲学なのだが、それが実に深く胸を打つのだ。
〈彼(呉清友)は、誠品が経営しているのは一種の「場所の精神性」だという。それは、単に「書店+売り場」という空間であるだけでなく、「場所の精神性」や読書、シェアをする場、そして身心が落ち着きを取り戻す文化的な場所なのである。/読書は、本と暮らしの間に存在する。書店は知識を伝える場というだけでなく、さまざまな芸術や展示の文化的な場になることができる。一つの文化的な場である以上、我々は空間としての美しさを重視すべきであると同時に、力をついやし、品を高め、独自の場にしていかなければならない。「場所の精神性」の実現は、我々誠品チームが創り出そうと思ってできるものではない。それは、都市の中の多様な文化を、さまざまな活動を通じて、多様な面の市民がともに参加する必要がある。それは人、空間、活動の衝突によって生まれる文化的ムードなのだ〉
少々長い引用になったが、「『場所の精神性』を経営する」というフレーズのなんと魅力的なことか。しかもそのあらゆる目的は「本を読む」ことにあるというのだ。
永江氏が明らかにした日本の書店、あるいは出版が置かれている貧しい状況を脇に置くと、その品位はますます輝いて見える。
「誠品生活日本橋」が商業的に成功するか否かはとりあえず置いておこう。なぜなら呉清友という人は15年間ものあいだ連続する赤字に耐え、その果てに大きな成功を手にした気骨の経営者であり、その遺伝子は誠品という企業に息づいているだろうから。
この〈志〉の高さ、それにこのところの香港の若者たちの姿などを見るにつけ、21世紀の日本にとっての「黒船」は、少なくとも「精神における黒船」は、どうやらアジア諸国からやってくるように思われて仕方ない。
前編を受けて今回では「ポスト2020の出版ジャーナリズム」をどう思い描くかを記そうとした。そのための助走がずいぶん長くなってしまったが、オリンピックが終わった後に予見される荒れ野原に、出版ジャーナリズムがどう立ち上がるかを期待を込めてひと言でいえば、「〈マス〉の幻想から〈個〉のリアリズムへ」ということになろうか。
広告会社主導のマスメディアは「オリンピック」という禊(みそ)ぎを経て、壮大な敗北を眼前にするだろう。同じく広告会社主導の雑誌が見る影もなくなった頃、書籍という地味な存在(形態でなく、思想としての書籍)に、われわれは改めて出版業としてのレーゾン・デートルを見出すに違いない。
そう考えれば「いま、ここ」にあながち暗いでもない現象がある。それは永江氏も書いているような、独立系の「セレクト書店」、それから従来の流通ややり方にとらわれない「ひとり出版社」が続々と生まれていることだ。
セレクト書店は、書店が注文していない本を取次が勝手に送ってくる「見計らい配本」を受けない。すべて自らの目で選書して仕入れ、自らの責任で販売する。「ひとり出版社」もアプリオリにある取次書店ルートを信用しない。出したい本を売りたい形で売ることに、企画のオリジナリティを負っている。
そして当然のことながら、セレクト書店は「ひとり出版社」と相性がいい。場合によっては両者を兼ねるところもそろそろ出始めてきた。これらの動きに共通しているのは、読者と書店、そして出版社との距離が限りなく近しいところに生まれる創造性である。
〈個〉は〈場〉を大事にする。それは〈マス〉の幻想が生んだ虚構空間ではなく、リアルな〈場〉だ。そしてその〈場〉を共有するイベントが開かれ、そこで得た限られた少数の体験は、SNSによって無限に拡散できる可能性をもたらされた。
その流れと並行して、大手書店にも新しい潮流が生まれつつあることを、ついこのあいだ直に体験した。
「書肆汽水域」という「ひとり出版社」を営む北田博充氏は、東京・二子玉川にある蔦屋家電の人文書コンシェルジュでもある。書店に勤めるかたわら、自分の出版社で年に1冊のペースで、主に文芸書を出している。
その北田さんが先日、多田尋子という作家の小説集『体温』(書肆汽水域刊)を出版した。帯なしの上製本で、特徴ある静物写真をあしらったカバーには、表にシンプルなタイポグラフィでタイトルを、裏には6人の書店員による書評の抜粋が載せられている。そしてその下には次のようなコピーがある。
〈歴代最多の六度、芥川賞候補にあがった多田尋子の小説集を約三十年ぶりに復刊。ままならない大人の恋を温もりのある文体で描いた一級品の恋愛小説集です〉
北田さんによると、多田尋子の小説を読んで「このレベルの作品が芥川賞をとらないのはおかしい」と思ったのがきっかけで、多田さんの著作を古本で手に入れるだけ入れて、店頭に並べて売ってみたところ、たちまちのうちに完売した。そこで、自分の気に入った中編を集めて新刊書として出すことに決めたのだという。そして出来た本を蔦屋家電の平台で大きく展開したところ、これもたちまちのうちに売り切れたのだそうである。
その売り方、発想もオリジナルだが、本づくりとしても新しい。特に投げ込みの小冊子に寄せられた、大塚真祐子さん(三省堂勤務)、八木寧子さん(湘南蔦屋書店勤務)、そして北田博充さんの書評が素晴らしい。作者の多田さんにとっては孫に近いほど年の離れた若い世代の胸の内に、30年前に書かれた多田さんの文章がリアルに共振している。
こうして新しい世代による〈新しい本の作り方/売り方〉が試みられ、文化が継承されていくのを目のあたりに出来た偶然を、ことのほか幸福に思った。
なぜなら30年ほど前に私は多田さんの担当編集者であり、芥川賞をとれなかった6篇の候補作のうち3篇は、かつて在籍していた文芸雑誌で担当した作品だったから。あらためて、多田尋子さんの小説の生命力に瞠目するとともに、新たな読者との出会いを寿ぎたい。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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