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アートの「窓」から生まれた千変万化の表現の世界

東京国立近代美術館で開催中の「窓展」で感じた「窓」を介して虚実を見る楽しみ

小川敦生 多摩美術大学芸術学科教授、美術ジャーナリスト

拡大会場風景より。窓と美術の関係史がまとめられており、レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》やフェルメール《牛乳を注ぐ女》など多くの美術家が窓とかかわりのある作品を生み出してきたことがわかる

 「窓展」と題した企画展が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。同館の一部の職員は館内の会議で企画名を聞いた時、「なぜ美術の展覧会でこのタイトルなのか。窓が並んでいると思われるのではないか」などと心配したという。さすがに国立美術館で開く企画展なので、建具の窓の見本市のような内容は逆に想像しづらいが、「窓」があまりにも身近な単語であるだけに、少なくとも訴求力の心配をしたということはありそうである。

 しかし、アートというのは、無限の可能性を秘めた存在である。 おおよそ誰の家にでもあるだろうこうした建具についても、縦横無尽に想像をめぐらせ、さらには創造力を働かせることで、 千変万化ともいえる表現の世界を現出できるのである。

 というわけで今日のテーマは、アートを介しての「窓」論だ。

人間は本能的に「窓」を求める

 「窓」(ウインドウ)は、たとえばパソコンの OS (基本ソフト)の名前にもなっている。「窓」が四角い枠の中を眺める機能を持つことを考えれば、今やスマートフォンなどを通じて、日々多くの人々が相当な高頻度で向き合っている存在である。昨今は、「スマホ中毒」などという言葉も生まれている状況だが、それは人間が本能的に「窓」を求めているからと考えることもできるかもしれない。

 そもそも「窓」は美術の世界では、意外と古くから話題になっていた。まつわるキーワードは「額縁」。壁の一部にしつらえた枠から室内空間とは異なる世界を見せてくれる点で、窓と額縁は極めて似た存在として捉えられてきたのである。

 筆者は美術館やギャラリーで額縁を見るとしばしば「ああ、窓枠だなあ」と思ってきたし、窓のない部屋でも絵画が掛けられていると、まるで窓があるかのように閉塞感から脱却した気持ちを持てる。そこから世界を開いてくれるのだ。

拡大館外に設置された藤本壮介《窓に住む家/窓のない家》(2019年)

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筆者

小川敦生

小川敦生(おがわ・あつお) 多摩美術大学芸術学科教授、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩美術大学芸術学科教授。「言語メディア」「音楽と美術」などの授業を担当。同大学で発行しているアート誌「Whooops!」の編集長を務めている。一方では「日曜ヴァイオリニスト」「ラクガキスト」を名乗り、アマチュアながら演奏とデジタル絵画制作に興じる顔を持つ。現在は日本経済新聞などの媒体に美術記事を寄稿しているほか、音楽之友社運営のウェブマガジン「ONTOMO」で「日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳」を連載中。これまでの主な執筆記事は「パウル・クレー 色彩と線の交響楽」(日本経済新聞)、「絵になった音楽」(同)、「ピカソ作品の下層に見つかった新聞記事の謎」(日経ビジネス電子版)「なぜ怪物が描かれたのか?——クリムトが描いたベートーヴェンのアヴァンギャルド」(ONTOMO)など。一般社団法人Music Dialogue理事。