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父は福島原発の誘致にたずさわった県庁職員だった

165万部のあの写真集を担当した元上司に聞いてみました[1]

鈴木久仁子 編集者・朝日出版社

 はじめまして。鈴木久仁子と申します。私は2000年に朝日出版社という会社に入社し、高校生に連続講義をした本や、ノンフィクション本などの編集をしています。怠け者で、あまり本をつくりませんが、仕事はすごく楽しいです。

 今回、「神保町の匠」担当の方に声をかけてもらい、「出版界や本のことであればなんでも書いていい」とのことですが……自分に書けることが思い浮かばなかったため、身近な人に、こんな機会でもなければ聞かない話を聞いてみようと思いました。今回登場するのは、元上司の赤井茂樹さんという人です。

2014年1月の編集部新年会のあと。一番右が赤井茂樹さん。左から末井昭さん、山本
貴光さん、吉川浩満さん、朝日出版社第二編集部の大槻美和さん
2014年1月、朝日出版社の編集部新年会のあと。右から赤井茂樹さん、朝日出版社第二編集部の大槻美和さん、吉川浩満さん、山本貴光さん、末井昭さん
 赤井さんは1956年生まれ、84年に朝日出版社に入社、91年に篠山紀信さん撮影、樋口可南子さんが被写体の『water fruit』、165万部のベストセラーになった宮沢りえさんの『Santa Fe』などの写真集、レーモン・クノー著、朝比奈弘治さん訳『文体練習』(96年)、池谷裕二さん+糸井重里さんの『海馬――脳は疲れない』(2002年)などを担当しています。

 2014年に朝日出版社を退社、現在はフリーで本をつくっていて、今年(2019年)刊行した本は、安東量子さんの『海を撃つ――福島・広島・ベラルーシにて』(みすず書房)三浦瑠麗さんの『孤独の意味も、女であることの味わいも』(新潮社)綿野恵太さんの『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)があります。

 赤井さんとは、私が会社の面接を受けた1999年からの付き合いで、いろいろ教えてもらったのは当然ですが、私の人生において(殴り合いの喧嘩をしていた)自分の父親と同じか、それ以上に喧嘩をした相手が赤井さんです。

 最近は、たまに会って愚痴を聞いては相変わらずだと思ったり、今も仕事のアドバイスをもらったりしています。赤井さんに聞いておこうということが、いろいろあるのです。

 話を聞いたのは7月上旬、その数日前には、仙台の書店で、画家の牧野伊三夫さんが絵を描いた『青い海をかけるカヌー――マダガスカルのヴェズのくらし』(月刊「たくさんのふしぎ」)と、赤井さんが担当した『海を撃つ』のイベントを行っていたとのこと(牧野さんは、私が担当した『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』の挿画を描いてくださいました)。その話から始まり5時間……話が終わらなかったので、後篇の分を聞くのはまた後日となりますが、今回は『海を撃つ』をつくる背景の話を中心にお届けします。

 編集者が、どんな出来事や人に出会い、どのように巻き込まれ、なにを考えながら本をつくっているかが垣間見えると思います。

非当事者だから観察できる

――どうでした? 牧野さんとのイベント。

 あぁ、あの(笑)……、牧野さん、酔っぱらって寝ちゃって。

――イベントの最中に? すごい、さすがですね。

 さすがです。でも、牧野さんに本を送ったら読んでくれて。「日刊ゲンダイ」の連載に書いてくれて、すごく嬉しかった。

安東量子さんの『海を撃つ――福島・広島・ベラルーシにて』(みすず書房)安東量子『海を撃つ――福島・広島・ベラルーシにて』(みすず書房、2019年2月刊)
 『海を撃つ』は、いわき市に住む、夫婦で植木屋をやってる安東量子さんが、2011年の原発事故から7年半の経験を書いた本なんだ。いわき市って、福島県の太平洋岸(「浜通り」と呼ばれる)最南端の広い町で、その最北端の一部ではごく初期に屋内退避指示が出たけど、他の地域では避難などの指示が出るようなことはなかった。ただ、大きな津波の被害が出た地域もある。

 安東さんは広島出身で、大学で東京に出て、その後結婚していわきに移住したんだ。ご主人は南相馬出身だったと思う。

 事故はあまりに巨大だったから、事故全体を代表できる人なんていないね。安東さん一人の経験と視点にすぎないけど、「一住民による貴重なドキュメント」とはちょっと違う。安東さんは、なんというか、巫女(みこ)的なところがあって、見ているものが違うんだ。

――うん、すごく面白かったです。ドキッとする場面がたくさんあって。

 そうだね。

――人間の、ちょっと人に見せたくないところがあらわになるところとか。安東さんが本の中で、原発事故によって放出された放射性物質が損なったのは、通常、自覚することさえない、暮らす環境そのものへの信頼だと気づいたって書いてるけど、そういう状況に置かれ続けたとき、人ってこういう顔するんだ、こんなふうに気持ちがぐらぐらしたりするんだって、心の動きを一緒に体感したような気持ちになって。

 事故の年の夏、(津波で亡くなった親戚の葬儀で)「みんないろいろなことを言うけれど、なにが本当なのかどう考えればいいのかわからなくてねぇ」って、のんびり話してた女性に、安東さんが「大丈夫なんじゃないでしょうか」って軽く声をかけた途端、その人の表情が激変して、畳みかけるように問いかけてくるところとか、その場で見てるみたい。よく観察してますよね、安東さん。

 うん、まあ、冷静なんだよね。

安東量子さん。ICRPダイアログセミナー、2014年12月。撮影:宮井優氏安東量子さん=2014年12月、ICRP(国際放射線防護委員会)ダイアログセミナーで 撮影・宮井優氏

――2011年5月頃の映画の自主上映会で、反原発派の監督が壇上で話しているとき、発した言葉と裏腹にその人の目が輝いているとか。目がらんらんとしてるんだろうな、もしくは、してるように見えちゃうんだろうなって思いますね。

 思うよねえ。そうなの、だから冷淡でもあるんだよ、安東さんって。

――そういうところ好きですよ。ドキッとするところと、時々、ふっと笑っちゃう、可笑しいところもあるし。

 安東さんが福島出身ではなくて、外様(とざま)っていうのもよくってさ。あの地域で生まれ育った人にはできないこともあるのね。安東さんは住民で地元の暮らしに愛着はある。たしかに観察いっぺんとうじゃないけど、観察ってむしろ、非当事者だからできると思うんだ。

――こういう本、ないですよね。

 ないと思うんだが。まあ、時期が……とにかく原発のことは、みんな、ほんとに興味がなくなったから。

――この本の面白さって、原発に興味があるとかないとか左右しないと思いますけど。

 うーん、そうだといいけど、まあ、8年経ってるからね。

強風の中、落葉清掃。2018年12月強風の中、落葉を清掃する安東量子さん=2018年12月

自分の父親が原発の誘致にたずさわって

――赤井さん、放射線の本、たくさんつくりましたよね。東日本大震災が起きてから、2014年に会社を辞めるまで、7割くらいは放射線関連の仕事になるんじゃないですか。

 そうだったかな。

――本以外の仕事もしてましたよね。

 ああ、いろいろやっているうちに、福島第一原発から40キロ離れているのに、全村避難という経験を強いられた飯舘村とも縁ができて、「かわら版道しるべ」という準広報紙の編集も途中まで手伝った。人数は限られるけど、行政の一人ひとりの顔と声に接することができたのはよかった。彼らの奮闘を知れば、「行政の怠慢」なんて言えなくなるからね。

 俺は、前にも鈴木さんに話したけど、父親が福島原発の誘致にたずさわった県庁の職員の一人だったから、あの……責任を感じるっていうほど、自分で直接的なつながり感じるわけじゃないけど、なんか……やっぱ、いやなもんじゃない? 自分の父親が原発を誘致したって。

――誘致したって、どういう……

 原発を誘致するとき、土地の収用、立ち退き、買い上げを、県も東電も進めたい。でも、そこに人が住んでるから、ここに原発を建てるので立ち退いてほしい、ついてはいくらをお支払いするからって交渉するわけ。

 これは差別的な表現で、今は使えないと思うけど、福島原発が立地されたところは「日本のチベット」って呼ばれてた。なにもない、ものすごく貧しいっていう意味で。

 農業にも適さないし、海岸は切り立った崖で漁港に恵まれない。それから国策で帝国陸軍の練習飛行場になったり、塩田開発のために東京の大企業が入ってきたり。要は、人が住んで仕事をするのにあまり向かない地域で、極貧だったらしい。

武谷三男(たけたにみつお)っていう、戦後日本を代表する理論物理学者が編著者の『安全性の考え方』(1967年)っていう岩波新書武谷三男編『安全性の考え方』(岩波新書、1967年刊)
 俺が中学のとき、父親が原発を誘致してきたと聞いた。1960年代の終わりから70年代にかけてだね。武谷三男(たけたにみつお)っていう、戦後日本を代表する理論物理学者が編著者の『安全性の考え方』(1967年)っていう岩波新書を読んでたから。

――どうしてその本を?

 同級生に一人だけ、小野功生(こうせい)君っていう、読書家の友達がいた。生まれてすぐからの付き合いで、2008年に亡くなったけど、その小野君が読んでた。

――いいですね、そういう友達がいて。

 うん。詳しい内容は思い出せないけど、「原子力平和利用の自主・公開・民主」とか……。時期的に、ベトナム反戦運動や反公害運動が起きていたはずで、それと関連があったかな。
(図書館で探したら、こう書いてあった。放射線の「利益と有害のバランスが許容量」であり、「どこまで有害さをがまんするかの量」が許容量である。「『許容量』というものが、害か無害か、危険か安全かの境界として科学的に決定される量ではなくて、人間の生活という観点から、危険を『どこまでがまんしてもそのプラスを考えるか』という、社会的な概念である」124頁。衝撃を受けるね)

 その本を読んでたもんだから、父親に食ってかかって、原発誘致なんて危ないんじゃないかって言ったわけ。安全だって言うなら、自分たちが隣に住めばいいし、東京に持っていけばいいじゃないって言うと、「そういうことじゃないんだ」って。ものすごく貧しい地域の人たちがいて、その地域をなんとかするっていう使命もあるんだ、みたいなことを言うんだよ。

 お前はどうせ、福島県庁のエリート幹部の息子で、国立大学附属中学校なんかに入って、わかんないだろうなって。用地買収のために訪ねていく家がどういう家かというと、玄関先は、むしろ(筵)が1枚ぶら下がっているだけで。ちょっと竪穴式住居……。

――ドアがないってことですか?

 そう。むしろは稲わらを乾燥させたやつを編んで、1枚の絨毯(じゅうたん)みたいにつくる。そのむしろが玄関にぶらーんと下がってる。それをめくって、こんばんはて、入っていくんだって。

 そういう地域に住んでる人の気持ちなぞ、わかんないだろうって言われて。うーん……納得いかないけど、そうなのかな、みたいな感じだった。

 やがて原発があちこちに建設されてどんどん既成事実化していくと、忘れていくじゃない、そういうことって。で、事故が起きてみると、ああ、やっぱり、みたいな感じが、他の人とはちょっとだけ違う感覚で、こう……やってくるわけ。

震災当時の福島県南相馬市鹿島区。撮影:安東量子氏震災当時の福島県南相馬市鹿島区=撮影・安東量子氏

道路脇に咲いていたタチアオイ。撮影:安東量子氏道路脇に咲いていたタチアオイ=撮影・安東量子氏

その程度の人間がやってるんだな

――お父さんが、その仕事してるって、なんで知ったんですか?

 わりとオープンに、仕事の話をしてたからね。

 その前は、全国総合開発計画っていうのをやってた。田中角栄の時代のちょっと前、狭い、資源もない国土を有効活用して、もう一度、先進国並みに這いあがっていこうっていう機運があったんだよね。高度経済成長期に入って、鉄鋼・石炭だけじゃなく、道路も住宅も都市もっていうのが全国総合開発計画。水の利用、電力の利用、交通網の整備とか、いくらでも課題はあった。父はその担当で、よく勉強してた。寝床でメモをとりながら本読んだりしてて、これなんだ?って聞くと、かくかくしかじかって教えてくれて。

 父は極貧育ちで、幼いときに小児麻痺にかかって片足が棒きれみたいに細かった。戦中世代だけど兵隊にもなれない。苦労して大学に入って、在学中から仕事を始めて当時の地位を手に入れた。役人としては異色だったろうね。身体障害者であることを上手に利用してるんだなって感じたこともある。

 全国総合開発計画のあと、原発誘致の話にかかわるようになったらしい。福島県って貧しい県だし、浜通りのあの地域はとくに困ってた。当時の県知事、その前の県知事が、いわば悲願として、政治主導で動かして、かつ、東京電力の社長が福島出身だったんだね。福島出身の国会議員、県知事、地元の議員なんかが中央の政治家や官僚と話をして、それで誘致が本格化したみたい。

福島第一原発の建設現場を見学する子どもや地元住民=71年6月ごろ福島第一原発の建設現場を見学する子どもたち=1971年6月ごろ

――当時、まわりで反対ってあったんですか。

 ううん、少なくとも福島第一原発のときはなかったと思うよ。第二原発のときはあったでしょう、自信ないけど。第一原発の誘致は1960年に始まって、71年に運転開始。第二原発の誘致は1968年から、運転は82年に始まるから、この時期のずれが関係あるかもしれない。

――当時、お父さんとはそういう議論をしたけど、友達とかまわりとは?

 父親とは議論っていうより喧嘩ね。他ではしないしない。そういう話ができる友達はいなかったし。原発のことで話をした記憶がないんだな。

 俺は、あの……父親に反対して、論破して、それで県の政策が変わるとか、そういうことってないじゃない? 絶対に。

――うん。

 だから、後悔っていうのとは違うんだけど。

――でもね。

 なんか、ちょっと気持ち悪いわけね。父親はいまも存命だけど、事故の時点で86歳だった。なにかのタイミングで会ったときに……こういうセリフ聞くと、ほんとにこんなもんなんだなって思うような、情けないこと言うわけ。

――うーん。

 曰く、自分がいた頃はよかったけど、自分の次、さらにその次の担当者たちは、どんどん東電に籠絡(ろうらく)されて基準を甘くしてあんなことになったんだ。自分たちが東電に対して厳しい縛(しば)りをつけた時代の、あの姿勢を維持できていれば、こんなことにはならなかったって。まあ、まったく大間違いだと思う。でも、そういうことを言う、その程度の人間がやってるんだなって。 (つづく)

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。