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挽歌に封印された古代文字の謎 その2

【7】「石狩挽歌」「小樽のひとよ」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

場所:小樽/余市
昭和50年(1975)「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼、作曲・浜圭介、唄・北原ミレイ)
昭和42年(1967)「小樽のひとよ」(作詞:池田充男、作曲:鶴岡雅義、唄:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

世界に注目された手宮洞窟の「古代文字」

小樽市の運河

 まず向かったのは車で小樽駅から15分ほど、小樽運河の西外れにある手宮洞窟保存館である。なんともちっぽけな構えで、ちょっと拍子ぬけする。

小樽市手宮洞窟保存館
 学芸員の説明に耳を傾けると、江戸末期、石工によって発見された「古代文字」は、ここを調査に訪れたイギリスの高名な地質学者によれば、推定年代は1600から2000年前の続縄文文化時代。歴史の授業では、そのころの日本列島の中心ではまだ文字は使われていなかったにも拘わらず、辺境に文字をもった人々がいたとは、まさにヒエログリフに匹敵する歴史の大発見であり、大正11年(1922)、当時皇太子だった昭和天皇が視察に訪れたというのもうなずける。ここ小樽の地はさぞや沸き立ったことだろう。

 しかし、である。展示の最後の説明ボードはこう記す。「フゴッペ洞窟の研究が進むにつれ、現在では絵画であるという見方が考古学者の意見となっている・・・」。

 残念ながら「古代文字」ではなく、「古代絵画・文様」だったのである。

「荒覇吐(アラハバキ)」を神に戴く古代王国の言葉か?

 私は説明ボードの言外に滲む無念を感じ取って、古代史ブームの中で起き私も惹きこまれた『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をめぐる顛末を想った。

 『東日流外三郡誌』とは、青森県津軽地方の和田喜八郎が自宅改築中に発見したとされる古文書で、古代史ブームの中で一般に広まった。かつて津軽の十三湊(とさみなと)を首都とする反大和朝廷国家があり、中国・朝鮮はもとより遠くヨーロッパ・中近東との交易で大いに栄え、その版図は樺太(サハリン)、北海道に及んだが、1340年か41年の大津波によって崩壊したという気宇壮大な創世クロニクルである。

 北海道も巻き込んでいる古代国家があったというのなら、「石狩挽歌」にある「古代文字」ともつながっているかもしれないと、私は心を揺さぶられたものだ。

 メジャーマスコミもこれに飛びついた。土偶の姿をした古代王国の神「荒覇吐(アラハバキ)」に惹かれた岡本太郎がテレビ出演して「宣伝役」を買ってで、また安倍晋三首相の父・晋太郎が安倍家の祖先の墓が東日流外三郡誌の発見者和田が再建した聖地にあるとして、そこを詣でるなど、話題を呼んだ。

 しかし、その後、調査が進む中で、『東日流外三郡誌』は「偽書」と断定されるようになった。地元青森県の教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』も、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』について、「捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記している。

 たしかにこの「東日流外三郡誌偽書事件」と手宮古代文字誤認事件はよく似ている。しかし、手宮のそれは「偽物」でも「偽装」でもない。間違いなく古代人の「痕跡」である。学者が勝手に文様を文字だと勘違いしただけのことではないか。文字をもつことが必ずしも文明度のバロメーターとは限らない。めげるなと手宮洞窟に同情を覚えながら、その足で、かつて日本どころか世界の耳目を集めた手宮洞窟を「ただの古代人の落書き洞窟」にしてしまったフゴッペ洞窟に向かった。

「古代文字」を「古代文様」に格下げしたフゴッペ洞窟

国の史跡に指定されたフゴッペ洞窟。カプセル式の展示施設で保護されている=北海道余市町

 そこは車で30分ほど、隣町の余市町にあって洞窟をそのまま博物館に仕立て、手宮洞窟とはうって変わって堂々たる構えである。当時の続縄文人の暮らしぶりをジオラマで再現するなど見ごたえも充分である。

フゴッペ洞窟の岩肌に残る刻画。人物や舟らしいものもある=北海道余市町
 ここは戦後の昭和25年(1950)、考古学好きの少年がたまたま手宮洞窟と同様の岩肌に刻まれた文様を発見。その後、日本海をはさんでロシア沿海州のアムール川周辺に同様の岩壁画が数多く発見されるに及んで、それらが「古代文字」ではなく「古代彫刻・文様」であるという学説に落ち着くようになったらしい。

 しかし、これを「評価の格下げ」とみるのは誤りだろう。ここフゴッペ洞窟に描かれている「角をもつ人」はシベリアなど北東アジア全域に広く見られたシャーマンではないかと推定される。4~5世紀ころ北海道に住んでいた続縄文化系先住民たちが、日本海をはさんで北東アジアの人々と交流していたことを示す重要な証拠物件である。後の吉野ヶ里や三内丸山の発見に見劣りするものではない。

巨石遺跡(ストーンサークル)は先住民族の痕跡?

 さらに、明暗をわけたフゴッペと手宮の中間地点にあたる忍路(おしょろ)の西側に約1キロにわたって、ストーンサークル遺跡があるというので、興味を覚えてそこへ向かった。ストーンサークルとは、縄文時代の墓で、生活の場と区別するために石を環状に並べたものだ。忍路のそれは長径33メートル、短径20メートルもある広大なものだ。片や地鎮山のそれは忍路の4分の1と小ぶりだが標高50メートルの小高い山の頂上にある。

国指定史跡の忍路環状列石=北海道小樽市忍路
地鎮山環状列石=北海道小樽市忍路

 案内役を買ってでてくれた友人のランドクルーザーが威力を発揮、楽々と山道を登っていけたが、この山奥を巨石をかついでいくのは当時としては一大土木作業である。これだけの労務をこなせたのは、相当な文明レベルの人々が多く居住していた証にほかならない。

 こうしたストーンサークルが小樽・余市界隈には大小あわせて80基も発見されているという。中学高校の歴史の授業では北海道は明治になってからしか登場しないが、実はここ小樽・余市周辺には古代人たちの豊かな暮らしと文化があったことは間違いない。だから「古代文字」が「古代彫刻・文様」に評価が変わったぐらいで、へこむ必要はまったくない。

スコットランドの巨石遺跡と薄倖の美少女

映画『テス』の宣伝のために来日した主演のナスターシャ・キンスキー=1980年8月26日
 ストーンサークル遺跡を見ているうちに、ある映画を思い出した。ロマン・ポランスキー監督の『テス』(1979年、英仏合作)である。往時、私は配給元の日本ヘラルドからノベライゼーションを依頼されて、試写室で
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