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『いだてん』田畑、五輪への道と挫折

朝日新聞を辞めて、衆院選に出馬。聖火リレーユーラシア横断に挑む

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

 NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治をめぐって、彼の新聞記者時代と、その時期の朝日新聞社のあれこれが、ドラマではどう描かれたか/描かれなかったかなどをつづってきたこの連載、今回は、社を離れた後の田畑と朝日新聞との関係を報告する。

まーちゃん、会社を辞めて、政治家に?!

いだてんヘルシンキ・オリンピックで入場行進する田畑政治選手団長=1952年7月19日

 『いだてん』第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、阿部サダヲ演じる「まーちゃん」こと田畑政治は、落語仕立てに時々歌舞伎調をまじえた語りで、敗戦から1959年までを振り返った。

 こんな流れだ。

 東京オリンピックには200億円の費用がかかる。東龍太郎と共に吉田茂首相に直談判した。政治家はなかなか腰が重い。えーい、頭きた、俺が政治家になってやろうじゃないか。

 麻生久美子演じる妻の菊枝に告げる。

「会社、辞めてきた。無職だよね。来たる衆議院議員選挙に静岡3区から立候補する」

 なかなか面白いお話。ただし、史実とは一部違う。実際には、こうだった。

 田畑は1952年(昭和27)2月22日に朝日新聞社を辞めた。

 経緯は本連載で前に報告したが、共に戦後の朝日新聞の立て直しに尽力していた長谷部忠社長が前年11月30日に退任し、戦前からの旧経営者が社の中枢に復帰したためである。田畑はその時、常務取締役から取締役となり、約3カ月後に社を去った。

 退社後まもなく、三島製紙の取締役になった。そして1952年7~8月、ヘルシンキ・オリンピックに日本選手団長として参加した。

 1953年(昭和28)3月14日、衆議院が解散した。国会質疑中に吉田茂首相が「ばかやろう」とつぶやいたことを発端に、野党や与党でも反吉田派が内閣不信任決議案を可決するに至った結果の、世に言う「バカヤロー解散」だ。

 この時、田畑の朝日新聞時代のボス・緒方竹虎は、第4次吉田内閣の国務大臣で副総理だった。

衆院選に立候補した田畑の真意は

いだてん衆院選に立候補した田畑政治の候補者紹介記事=1953年3月29日朝日新聞第一静岡版B

 選挙は1953年3月24日に公示された。田畑は故郷浜松を含む静岡3区から、吉田・緒方の自由党の新人として立候補した。29日の朝日新聞朝刊の「第一静岡版B」という地方面に候補者紹介がある。

 全文を示す。

東京へオリンピック 政治はスポーツに通ず

 〝私は政局の安定のつっかえ棒になりたい〟と油ぎった健康そうなホオをほころばせて浜松のマーちゃんこと田畑政治氏は立候補の弁を語る。
 当初参議院から衆議院にくら替えしたのは党の指金もあったとウワサされるが生粋の浜松っ子とはいえ長く東京で生活、好きな葉巻をプカリプカリ重役室で吹かしていたご仁だけに遠州でも知識人の間にはなかなかに売れた顔だが一般にはそれほどでもない。
 浜名湖の水泳できたえた十七貫ガッシリした体格だけにいいだしたらなかなかあとには引かぬ。「清純な政治は青年と婦人の純潔力で妥協と取引のないスポーツ精神に通ずる純理によって達成されると信じる」と論じスポーツ振興こそ国民精神作興の随一のカテだし国際親善の近道だという。

 同候補の公約は(一)東京オリンピックの開催(一)国体の県誘致(一)浜松を基点とする天竜川総合開発(一)工都の完成(一)不燃焼都市浜松の建設と遠信鉄道う回線の完成。などをあげている。新人候補としての魅力は一応買われているようだ。

 立候補や、オリンピックを公約にあげたところは、ドラマも史実も同じだ。そして4月19日投票で落選したことも。

 田畑が言う「政局の安定のつっかえ棒に」というところが、立候補の事情を語るものかもしれない。

 製紙会社から収入を得、水泳活動やオリンピックにも出かけていた。なにより彼自身が政治家になるという考えはなかったはずだと、田畑の政治部時代の同僚は、回想している。

 それなのに立候補したというのは、解散総選挙、それも与党が吉田派と鳩山一郎らの非主流派に分裂した状況で、やはり緒方の意を受けてなのか。

 田畑はその後は選挙には出ていない。

 1956年(昭和31)1月28日、緒方竹虎が急死した。54年(昭和29)12月には自由党総裁、保守合同が成った55年(昭和30)11月には自由民主党総裁代行委員となり、首相を期待する声が高かったときだった。

 田畑はこの年の11~12月にはメルボルン・オリンピックに選手団長として出場。東京招致に向けて一直線である。

いだてんメルボルン・オリンピックの開会式入場行進で開会宣言をした英国エディンバラ公に右手を挙げる田畑政治団長と選手たち=1956年11月22日

ユーラシア大陸横断の聖火リレー計画

いだてん朝日新聞社の聖火リレー大陸コース踏査隊が出発する前にIOC委員に計画を説明した=1961年6月19日

いだてん岩の切り立ったアフガニスタンの山岳地帯を行く踏査隊の車=1961年8月25日
 ドラマでは、タクシー運転手だった森西栄一(演じたのは角田晃広)が、聖火リレーの調査に派遣されたものの、死ぬかという思いをして帰り、田畑にくってかかるシーンがあった。

 森西が特別装備の自動車の運転手として参加した「聖火リレー 大陸コース踏査」は、朝日新聞がその可能性を調査するために実施したプロジェクトだった。

 この旅に参加したのは、探検家でもあったオリンピック組織委員会事務局参事の麻生武治、朝日新聞企画部員の矢田喜美雄、朝日放送報道部員の小林一郎、医師・日発病院内科医局員の土屋雅春、日産自動車技師の安達教三、そして組織委員会事務局嘱託となった森西の6人。

 矢田は朝日新聞社会部記者として、「下山事件」としていまも知られる1949年(昭和24)の下山定則国鉄総裁の轢断(れきだん)事件報道で活躍したほか、1956年(昭和31)に出発した南極観測プロジェクトの実現に尽力した。

 その矢田が副隊長・マネジャーを務める踏査隊は、1961年(昭和36)6月23日にギリシャ・アテネのオリンピア遺跡を出発、トルコからシリア、レバノン、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、再びインド、バングラデシュ、ミャンマー、タイ、マレーシアと旅し、12月21日にシンガポールに到着した。インドからミャンマー間では一部空路となったが、2万㌔以上の行程だった。

 その後の社内報でのリポートで矢田は「構想は朝日新聞社が考えたことではありませんでした。(中略)いい出した人はたくさんあるものの、これをテストしてみる人はなかなか現れませんでした」としている。

 回顧本『人間 田畑政治』では、東京五輪組織委員会渉外部長だった岩田幸彰(ドラマでは松坂桃李)が、田畑が一時、古代シルクロードの跡をたどり、中国を経るという聖火リレーの案を提言したのは「確か当時の朝日新聞社会部の記者、矢田喜美雄氏であったと思う。(中略)さすがの田畑さんも、最初、この案には驚いたようで、『君、どう思う』と聞かれて、私も返事のしようがなかった」と記している。

 1961年6月にアテネで開かれていたIOC総会に出席していた田畑と岩田は、この踏査隊の出発を現地で見送っている。

妻・菊枝を心配させたアジア競技大会

いだてん参加各国の旗がはためく第4回アジア競技大会=1962年、ジャカルタのメーン・スタジアム

 1962年(昭和37)8月から9月、インドネシア・ジャカルタで開かれた第4回アジア競技大会は、田畑が東京五輪組織委員会事務総長を辞めるきっかけとなった。ドラマではその経緯がたっぷりと描かれた。

 その新聞報道に妻の田畑菊枝は心を痛めていた。

 菊枝は東京の組織委員会で留守番をしていた岩田や松澤一鶴(演じるのは皆川猿時)らを訪ね、「古巣の朝日まで田畑憎しの袋だたき」と心配していた。そこでは「まーちゃんは意外と嫌われているんです」というせりふで視聴者を笑わせたが、実際には、朝日新聞の論調はどうだったのだろうか。

 『いだてん』の中で映った新聞は、第1面で田畑を批判したものなど、朝日新聞であってもドラマ用に改造したものだ。「戦犯」という見出しの新聞は「毎朝新聞」となっていた。

 当時の朝日の紙面を一通り確認してみたところ、田畑がジャカルタに滞在中は、田畑を批判する調子は、それほど強くはなかった。むしろ大会の後、帰国してから、アジア大会について田畑の不注意な発言が続いたことで、批判記事が増えていった。

 ただ大会中の記事では一つ、8月27日の1面コラム「天声人語」が、こう表現している(用字はそのまま)。

(前略)ところが現地にいる日本代表団が、各国を誘って競技出場、全種目参加に踏切り、変則競技強行にリーダーシップをとったことから、国際陸連の勧告無視の責任を日本がひっかぶり、非難の風向きがまともに日本に吹きつける始末となった▼折角大勢の選手が集ったのだからという現地のムードに巻込まれたのだろうが、東京オリンピック大会への悪影響一つを考えても軽卒の観は免がれない。(中略)かりそめにもスポーツの政治への屈服を許すような五輪首脳陣に東京大会を安心して任せてよいだろうかとの疑問もわいてくるのである。

 この「天声人語」には、現実の菊枝さんも心配したかもしれない。

 ちなみにこのころの「天声人語」の担当記者は、荒垣秀雄である。ただ、時々別の記者が書くこともあったので、この日の筆者だったと断言できない。

 田畑はジャカルタで日本の新聞を読んでいる。当時朝日新聞の政治面にあったコラム「記者席」(8月28日付け)が、池田内閣の黒金泰美官房長官の言葉を記録している。

 「日本の新聞などをドッサリ送って世論を伝え、注意を促しているのだが現地からはナシのつぶてで……」と暗い表情。日本―ジャカルタ間の電報が十時間もかかったり、大会に派遣した川島国務相が現地で旅行をしていたため二十六日夜にやっと連絡がついたというのも、何かと行き違いの原因だったようだ。

 こうした新聞を読みながら、ジャカルタで、ドラマのまーちゃんは、どうしてこんな記事が出ているのだろうかと首をひねっていたが、政治部記者だった現実の田畑政治には、そうした記事の取材源がどういう政治家や官僚からだったかなど、だいたいの想像はついただろう。

 浅野忠信が演じる政界の寝業師・川島正次郎に「さぞかし困るでしょうなあ、スカルノ大統領とズブズブの関係にあるオリンピック大臣は」とも言う。

 ただ、当時は国際電話がつながりにくく、ジャカルタから日本の情報を収集することが難しかっただろうし、さらには、推定となるが、緒方竹虎は既に亡く、またかつて食い込んでいたという鳩山一郎も1959年(昭和34)に死去しており、田畑には、政治家との直接のパイプがなくなっていた。政治の世界からの「適切な助言」を得られなかったことが、その後のアジア大会についての不用意な発言、そして東京五輪組織委員会事務総長辞任へと影響したのではないだろうか。

 なお『いだてん』では、まーちゃんが「なんなんだ、あの新聞記事は! なぜ競技の結果を書かん!」と叫ぶくだりもあった。朝日新聞をチェックしたところ、大会初日から結果は逐一報道していた。

 次回は、事務総長を辞めてから東京オリンピックを迎えた時期の田畑政治と朝日新聞について報告する。