前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
朝日新聞を辞めて、衆院選に出馬。聖火リレーユーラシア横断に挑む
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公、田畑政治をめぐって、彼の新聞記者時代と、その時期の朝日新聞社のあれこれが、ドラマではどう描かれたか/描かれなかったかなどをつづってきたこの連載、今回は、社を離れた後の田畑と朝日新聞との関係を報告する。
『いだてん』第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、阿部サダヲ演じる「まーちゃん」こと田畑政治は、落語仕立てに時々歌舞伎調をまじえた語りで、敗戦から1959年までを振り返った。
こんな流れだ。
東京オリンピックには200億円の費用がかかる。東龍太郎と共に吉田茂首相に直談判した。政治家はなかなか腰が重い。えーい、頭きた、俺が政治家になってやろうじゃないか。
麻生久美子演じる妻の菊枝に告げる。
「会社、辞めてきた。無職だよね。来たる衆議院議員選挙に静岡3区から立候補する」
なかなか面白いお話。ただし、史実とは一部違う。実際には、こうだった。
田畑は1952年(昭和27)2月22日に朝日新聞社を辞めた。
経緯は本連載で前に報告したが、共に戦後の朝日新聞の立て直しに尽力していた長谷部忠社長が前年11月30日に退任し、戦前からの旧経営者が社の中枢に復帰したためである。田畑はその時、常務取締役から取締役となり、約3カ月後に社を去った。
退社後まもなく、三島製紙の取締役になった。そして1952年7~8月、ヘルシンキ・オリンピックに日本選手団長として参加した。
1953年(昭和28)3月14日、衆議院が解散した。国会質疑中に吉田茂首相が「ばかやろう」とつぶやいたことを発端に、野党や与党でも反吉田派が内閣不信任決議案を可決するに至った結果の、世に言う「バカヤロー解散」だ。
この時、田畑の朝日新聞時代のボス・緒方竹虎は、第4次吉田内閣の国務大臣で副総理だった。