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『いだてん』田畑、五輪への道と挫折

朝日新聞を辞めて、衆院選に出馬。聖火リレーユーラシア横断に挑む

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

衆院選に立候補した田畑の真意は

いだてん拡大衆院選に立候補した田畑政治の候補者紹介記事=1953年3月29日朝日新聞第一静岡版B

 選挙は1953年3月24日に公示された。田畑は故郷浜松を含む静岡3区から、吉田・緒方の自由党の新人として立候補した。29日の朝日新聞朝刊の「第一静岡版B」という地方面に候補者紹介がある。

 全文を示す。

東京へオリンピック 政治はスポーツに通ず

 〝私は政局の安定のつっかえ棒になりたい〟と油ぎった健康そうなホオをほころばせて浜松のマーちゃんこと田畑政治氏は立候補の弁を語る。
 当初参議院から衆議院にくら替えしたのは党の指金もあったとウワサされるが生粋の浜松っ子とはいえ長く東京で生活、好きな葉巻をプカリプカリ重役室で吹かしていたご仁だけに遠州でも知識人の間にはなかなかに売れた顔だが一般にはそれほどでもない。
 浜名湖の水泳できたえた十七貫ガッシリした体格だけにいいだしたらなかなかあとには引かぬ。「清純な政治は青年と婦人の純潔力で妥協と取引のないスポーツ精神に通ずる純理によって達成されると信じる」と論じスポーツ振興こそ国民精神作興の随一のカテだし国際親善の近道だという。

 同候補の公約は(一)東京オリンピックの開催(一)国体の県誘致(一)浜松を基点とする天竜川総合開発(一)工都の完成(一)不燃焼都市浜松の建設と遠信鉄道う回線の完成。などをあげている。新人候補としての魅力は一応買われているようだ。

 立候補や、オリンピックを公約にあげたところは、ドラマも史実も同じだ。そして4月19日投票で落選したことも。

 田畑が言う「政局の安定のつっかえ棒に」というところが、立候補の事情を語るものかもしれない。

 製紙会社から収入を得、水泳活動やオリンピックにも出かけていた。なにより彼自身が政治家になるという考えはなかったはずだと、田畑の政治部時代の同僚は、回想している。

 それなのに立候補したというのは、解散総選挙、それも与党が吉田派と鳩山一郎らの非主流派に分裂した状況で、やはり緒方の意を受けてなのか。

 田畑はその後は選挙には出ていない。

 1956年(昭和31)1月28日、緒方竹虎が急死した。54年(昭和29)12月には自由党総裁、保守合同が成った55年(昭和30)11月には自由民主党総裁代行委員となり、首相を期待する声が高かったときだった。

 田畑はこの年の11~12月にはメルボルン・オリンピックに選手団長として出場。東京招致に向けて一直線である。

いだてん拡大メルボルン・オリンピックの開会式入場行進で開会宣言をした英国エディンバラ公に右手を挙げる田畑政治団長と選手たち=1956年11月22日

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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