2019年12月13日
東京の神保町シアターで「没後50年 成瀬巳喜男の世界」が開催中だが、男女や親子の情愛の機微を繊細に描く女性映画/メロドラマの名匠・成瀬の、なんと25作品がスクリーンで堪能できる貴重な特集である。
むろん、上映作品はいずれも必見だ。が、あえて必見中の必見作を絞れば、戦後の傑作群、かの究極の腐れ縁映画『浮雲』(1955)、『流れる』(1956)、『放浪記』(1962)、『乱れる』(1964)、『乱れ雲』(1967、遺作)、となろうか。
いやこれでは教科書的すぎるので、比較的知られていない戦後の名品、『銀座化粧』(1951)、『おかあさん』(1952)、『お国と五平』(同)、『妻』(1953)、『鰯雲』(1958)、『秋立ちぬ』(1960)を挙げるべきか。いやいや、日本映画第1期黄金時代の1930年代に成瀬がPCL (東宝の前身)で撮った、『乙女ごころ三人姉妹』(1935)、『噂の娘』(同)、『妻よ薔薇のやうに』(同)、『女人哀愁』(1937)、そして東宝第1作『鶴八鶴次郎』(1938)などの、あれら刮目(かつもく)すべき傑作群こそ、何をおいても見るべきでは……とぐずぐず迷ってしまう。
要するに、成瀬映画は本特集演目にかぎらず、どれも見逃せないのだが、今回はまず、いま挙げた1930年代/戦前の傑作群の中でも、芸道もの『鶴八鶴次郎』と並ぶ最高作、『噂の娘』を取り上げたい。
『噂の娘』は、東京の下町・烏森(からすもり)にある老舗の灘屋酒店の没落を、対照的な性格の姉妹をめぐる縁談を中心に描く55分の中編。成瀬ならではの、簡潔でデリケートな情感描写が冴えに冴える珠玉のメロドラマであるが、チェーホフの『桜の園』に想を得た成瀬が自身で脚本を書いた本作は、長らく上映プリントが存在せず、2005年にコミュニティシネマ支援センターがニュープリントを作成して上映可能になった(その意味でも“隠れた傑作”だといえる)。
ヒロインは、明眸皓歯(めいぼうこうし)という形容がぴったりのクラシックな美人女優、千葉早智子扮する姉の邦江(和装)。控えめだが芯の強い古風な性格の邦江は、家計を女手ひとつで切り盛りしている。当主である父の健吉(御橋公)は、灘屋の経営を立て直すべく、邦江と家柄の良い新太郎(大川平八郎)の縁談に望みをつなぐ。だが、見合いの席で新太郎は、邦江の妹・紀美子(梅園龍子・洋装)――姉とは対照的に自由奔放で損得勘定に長けたモダンガール――と意気投合し、相思の仲になってしまう(物語に小波乱を呼び込む巧みな展開だが、後述するように、それを邦江が知るのは映画の後半の、短くも印象深いシーン)。
そして実は、やもめの父・健吉には、おでん屋を持たせているお葉(伊藤智子)という妾があり、紀美子はお葉が産んだ娘だったが、紀美子はそうとは知らず実の母への軽蔑をあらわにする(紀美子は、終盤のクライマックスで自らの出生の秘密を知るが、邦江が紀美子と新太郎の仲を知るのが後半の場面であるように、物語のどこにヤマ場を仕掛ければメロドラマ的葛藤が最も強度を帯びるのかを、成瀬は熟知している)。さらに、邦江が結婚を決意するのは、晴れてお葉が父の後妻に迎えられ、紀美子と3人で幸せに暮らしてほしいとの願いゆえ……というメロドラマ的設定も観客の琴線に触れる。
また、灘屋を左前にした張本人である浪費家でニヒルな先代・啓作(汐見洋)の存在が、物語に不穏な陰影を加える。あるいは、窮地に陥った健吉がひそかに酒に違法な混ぜ物をするところや、それが発覚して刑事が灘屋にやって来て彼を連行するラスト近くの場面、さらに映画を締めくくる、冒頭にも登場した灘屋の向かいの床屋の主人(三島雅夫)と客が、灘屋の破産についてあれこれ噂して軽口をたたく場面などが、本作にシニカルで辛辣な味わいを添えるが、ともかく、55分間できわめて密度の濃い人情劇を、感傷に流れることなく、ケレン味もあざとさも一切なしに、スリリングかつ情感豊かに――しかも皮肉っぽいユーモアをまじえて――語り切った成瀬の天才に、粛然とするほかない。
ところで後半の、邦江が紀美子と新太郎とのデートを目撃し、二人がいつのまにか恋仲になっていることを知るくだりも、息をのむほどサスペンスフルだ。その場面はおおよそ次のように展開する――<川を渡る水上バスに乗った邦江が、ふと目を上げる→邦江の視線が偶然とらえたのは、橋の上で楽しげに語りあう紀美子と新太郎の姿だ(邦江の視点からの仰角のロングショット/遠写。見事な“視線つなぎ”)。→次いでカメラは橋上に移り、紀美子と新太郎を間近から写す。紀美子も船上の邦江に気づく。→ふたたび船上の邦江のショット。彼女は目を伏せ、あるかなきかの微妙なニュアンスの憂い顔になる……>
驚くべきは、この、
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