組織委員会の事務総長を辞任しても、「まーちゃん」はやっぱり……
2019年12月21日
NHK大河ドラマ『いだてん』の完結とともに、放送終盤に伴走してきた本連載も今回と次回で締めくくる。五輪組織委員会事務総⻑を辞任した後の⽥畑政治と朝⽇新聞の接点を報告するほか、歴史を素材としたフィクション作品に対して史実をリポートする意味についても自問自答してみる。
阿部サダヲ演じる田畑政治は、1962年(昭和37)10月の五輪組織委員会事務総長辞任の後、自宅でふさぎ込む日々を送っていた。そこに松澤一鶴(演じるのは皆川猿時)や岩田幸彰(同じく松坂桃李)らが、国立競技場模型などの「俺の東京オリンピック」セットを持ってやってくる。
お話だろう、と思うが、あり得たかもしれない。朝日新聞としては、これを証明する情報は持っていない。
ただ、事務総長辞任から10カ月ほど経った田畑政治の様子を、当時朝日新聞社が発行していたグラフ誌「アサヒグラフ」1963年(昭和38)8月30日号が、大ぶりの写真とともに5ページにわたって紹介している。
タイトルは「あれから…… 東京オリンピック 主役の座をおりて 田畑政治氏」。記事の抜粋を紹介する。
ああ、みんなやめちゃったんで、なんにもやることがなくなっちまった。うん、なにもしてないんだ。全くひまになっちまった。ひまで困るなあと思うこともあるし、日一日とオリンピックはせまっているのに、なにをもたもたしてやがるんだってやきもきしたりもするよ
開口一番、定評のある早口で一気にまくしたてた。が、心なしか、昔日のファイトはチョットおとろえた感じ。
やめたって、ぼくの能力がだめになったわけじゃあない。オリンピックを東京にもって来たのはぼくだし、施設、運営の具体的総路線をひいたのもぼく。大会開催の準備に、ぼくはからだをはり、金銭以外の非難は、どんなことでもひとりで引受ける覚悟で、とにかく、オリンピックは東京でやれるところまでひっぱって来たんだ
このあと、だれがやっても、オリンピックはなんとかやれるだろう。だれがやってもな。だが、いまの組織委員会の首脳部にも、事務当局最高幹部にも、オリンピックのことを知っている者はいない。もし、いたとしても、ローマ大会を見物席からのぞいたという程度じゃないか
せっかく東京でやるんだから、大きな夢をさかせることを考えなくては……変だと思うんだな。田畑色一掃なんていうやつもいる。オリンピックをやるのか、田畑色一掃なのか。なにぬかしやがるのかと思ってるんだ
田畑は事務総長は辞任したが、依然として組織委員である。その立場としての言葉が続く。
組織委員会に出席しても、いまは低調でつまらないな。やめてからはものもあまりいわなかったが、これからは、遠慮なしにどんどんしゃべったり、書いたりするよ。それでないとオリンピック屋やおべんちゃら利権屋に、オリンピックがくいものにされる心配だってあるんだ。これからは水泳といわず、陸上といわず、みな選手強化訓練も見てまわろうと思う……
田畑はこの記事が出た年の5月2日に東京五輪選手強化特別委員会の特別委員7人のうちの1人になっていた。
回顧本『人間 田畑政治』には岩田幸彰の思い出話も多数収録されているが、その岩田は、「裏・事務総長」との会合などは証言していない。田畑の強い慰留で組織委員会の渉外部長を続け、与謝野秀・新事務総長のもとで働いたのであり、与謝野ほか新しく委員会に加わった人たちは、岩田を「田畑派の残党」と警戒もしていたという。田畑が委員会に来て岩田に声をかけることはあったが、岩田が田畑の自宅を訪ねるということは、恐らくは控えていただろうと思う。
同書にはNHK運動部の記者だった遠藤俊七郎の、こんな回想がある。
ある日のこと、与謝野氏担当の記者が私に相談があると話しかけてきた。話の趣旨は、取材記者として与謝野氏を担当するのはかまわないが、個人的なつきあいのときには田畑さんのグループの集まりに参加させてほしいというものだった。信義として二君に仕えるのは許せなかったので、私は慰めるように説得して彼の申し出を断った。しかし、この記者の田畑さん好きは以前から定評があった。彼はまた水泳競技担当でもあった。私は一人でも親田畑がふえるのが嬉しかった。その後しばらくして私は彼を〝かくれ田畑派〟として仲間に加えた。田畑さんという人はそのような魅力の持ち主だった。
「アサヒグラフ」の記事が出たすぐ後、1963年(昭和38)9月7日の朝日新聞朝刊に、田畑の署名記事「新興国競技大会への不参加に思う」が載った。
インドネシアが計画している大会は、世界のスポーツ界を二分する動きを起こして国際オリンピック委員会を揺さぶろうという誤った判断によるものだと批判。日本体育協会は、日本が参加しないのは「オリンピック精神に反するスポーツ的非合法の大会だから参加が出来ないのだ、というきわめて簡明にして純粋なスポーツ的理由以外の何ものでもない」という真意をインドネシアにはっきり伝え、大会中止勧告をすべきだと結んでいる。
ほぼ1年前のアジア競技大会でのことを考えると、この寄稿は論旨もそうだが、田畑に書かせた編集判断も、なかなかに興味深い。
なお、この新興国競技大会は結局42カ国の選手が参加して11月に開かれ、日本からも体協の不参加方針とは別行動で参加した選手たちがいた。大会は翌年の東京五輪にも影響し、北朝鮮とインドネシアは開幕直前に選手団を引き揚げた。『いだてん』最終回で、松重豊演じる東京都知事・東龍太郎がインドネシア選手団を見送るシーンがあったが、事情はこういうことだった。
次いで、同年12月23日の朝日新聞朝刊には、東京の次に大会が開かれるメキシコ・シティーのオリンピック委員会から招待されていた田畑が帰国したという記事があった。
1964年(昭和39)4月24日の朝日新聞朝刊には、学芸面に田畑の寄稿「朝倉先生とオリンピック芸術展」が載った。同月18日に死去した彫刻家・朝倉文夫が、オリンピック憲章で実施が定められていた「芸術展示」の改革に貢献したことを紹介するものだった。
1953年(昭和28)、朝倉は東京・谷中の自宅に田畑を呼び出し、きわめて熱心に、次のように説いたとういう。
今のオリンピック芸術展は、三つの大きな誤りを犯しているというのである。一つは、芸術展をスポーツ部門の一種目のごとく取りあつかっていることである。芸術展はスポーツ部門の中にあるのではなく、これと併立するものであって、この二つでオリンピック大会はなり立っているのである。二はその対象を狭くスポーツに限っていることである。これは広くスポーツの理想とする健康美におくべきである。三は制作者をアマチュアに限っていることである。第一流の芸術家は専門家である。当然、広く専門家に解放すべきである。この三問題を解決するのでなければオリンピック芸術展は無意義に等しく、自然消滅の途をたどる外あるまい。是非、この解決に努力してくれというのである。
その後も朝倉に働きかけられた田畑は、国際オリンピック委員会(IOC)と、特に美術愛好家であったブランデージ会長に、朝倉の意見を届けたという。
そのためか、1960年のローマ大会の時のIOC総会で、今後、芸術展示は、はっきりスポーツ部門と独立したものとする、従ってその対象はスポーツに限らず、制作者もアマチュアに限定しないがその国の第一流品に限ると決議された。全く朝倉先生の主張がそのまま通ったのである。
朝倉―田畑の働きかけだけで、「芸術展示」の質的転換が実現したのかどうか、本稿で検証できることではないが、田畑のオリンピックとの関わりの幅広いことをうかがわせるエピソードだ。なお、「芸術展示」は、1992年のバルセロナ大会から「文化プログラム」となった。
1964年(昭和39)8月21日、ギリシャのオリンピアで聖火リレーの採火式が行われた。言葉は紹介されていないが、田畑が安川第五郎・東京五輪組織委員会会長らと共に出席した記事が22日朝刊に載っている。
『いだてん』最終回、東京五輪の閉会式が進むなか、田畑は嘉納治五郎の声(役所広司)を聴き、涙する。そこに来た岩田も、田畑の涙と田畑からかけられた感謝の言葉とに感極まる。
岩田が田畑の涙を見たのは、史実でもオリンピックが終わったあとのことだったようだ。『人間 田畑政治』では、こう記している。
東京オリンピックが無事に終わり、二、三日たったころであった。気が抜けたように、ぼんやり事務所の椅子に寄りかかっていたところに、ひょこっと田畑さんが訪れて来られた。「やっと終わりましたよ、田畑さん」と立ち上がる私に、「岩田、ありがとう。俺はあらためて君に礼を言うよ」と私の手を強く握りしめられた田畑さんの目に、大粒の涙が浮かんでいた。このときはじめて、私は田畑さんの涙を見た。
この本が刊行されたのは1985年8月20日。その前年、1984年9月27日の朝日新聞朝刊4面に、連載「20世紀の軌跡 五輪うら話(続)51 後任人事」が載っている。記者が取材した岩田の次の言葉を紹介している。
大会がすんで、田畑さんは私が見ている前で与謝野さんに「本当によくやってくださった。ありがとう」と話していた。私はあのとき初めて田畑さんの涙を見た
まあ、厳密には、「初めて」はどちらかのはずだが、涙は本物だろう。
1964年(昭和39)10月24日、東京オリンピックが閉会。朝日新聞は翌25日朝刊11面に「感無量 東京大会 オリンピック東京大会組織委員 田畑政治」を掲載した。
田畑は戦後の東京五輪招致の歩みを振り返り、こう記す(要旨)。
全米水泳選手権に古橋広之進らを送って全世界のスポーツ界を驚嘆させて、対日感情を一変させ、日本のすべての競技団体の国際復帰を実現させた。これでオリンピック参加と開催の資格を得て、招致の地ならし工作を完了した。
「私の書きおろした筋書とおぜん立てで」東京招致を実現した。
ワシントンハイツを移転して、その跡に選手村と屋内水泳場を作ることに成功した。
(事務総長を退き)ほとんど私一人の知識、経験で、従来の慣例に創意工夫を加えて引いた路線の上に、素人ばかりの組織委員会事務局の手で、果して、立派に車を走らせ得るかということについて、非常に不安を感じた。
しかし、結果は立派にやってくれた。私の夢の大部分を実現してくれた。アジア各国の青少年に聖火リレーのトーチを持って走ってもらった。最後の走者の坂井君は原爆投下の日に広島県下で生まれた青年だった。アメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが(中略)原爆に対する憎しみを口にしえない者は世界平和に背を向ける卑怯者である。
競技場も、立派というよりむしろ芸術品ぞろいである。特に丹下氏の屋内水泳場は天下の圧巻である。
女子バレーを大会競技に加えるため、あらゆる努力を傾倒した。IOCで希望が入れられて帰国すると、ニチボー貝塚チームの大松博文監督が引退するという。翻意を懇請した。
一番さびしいことは、水泳日本の栄光が全く影をひそめたことだ。関係者に反省と過ちを正すことを求めた。水泳連盟の名誉会長だが、「私が顔を出しては、後継者がやりにくかろう」と思っていた。今にして思えばこれは間違った遠慮であった。今後は会長はだれであろうと、私の創意、工夫を十分活用して、水泳日本の栄光をとり戻す推進役になろうと思っている。
長い紹介となったが、いやはや、「私がやった」のオンパレードである。しかしそれは実際に行われたことであり、この寄稿は、田畑が大会実現の立役者であったことを、朝日新聞としても改めて読者に示した記事だった。
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