前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
組織委員会の事務総長を辞任しても、「まーちゃん」はやっぱり……
NHK大河ドラマ『いだてん』の完結とともに、放送終盤に伴走してきた本連載も今回と次回で締めくくる。五輪組織委員会事務総⻑を辞任した後の⽥畑政治と朝⽇新聞の接点を報告するほか、歴史を素材としたフィクション作品に対して史実をリポートする意味についても自問自答してみる。
阿部サダヲ演じる田畑政治は、1962年(昭和37)10月の五輪組織委員会事務総長辞任の後、自宅でふさぎ込む日々を送っていた。そこに松澤一鶴(演じるのは皆川猿時)や岩田幸彰(同じく松坂桃李)らが、国立競技場模型などの「俺の東京オリンピック」セットを持ってやってくる。
お話だろう、と思うが、あり得たかもしれない。朝日新聞としては、これを証明する情報は持っていない。
ただ、事務総長辞任から10カ月ほど経った田畑政治の様子を、当時朝日新聞社が発行していたグラフ誌「アサヒグラフ」1963年(昭和38)8月30日号が、大ぶりの写真とともに5ページにわたって紹介している。
タイトルは「あれから…… 東京オリンピック 主役の座をおりて 田畑政治氏」。記事の抜粋を紹介する。
ああ、みんなやめちゃったんで、なんにもやることがなくなっちまった。うん、なにもしてないんだ。全くひまになっちまった。ひまで困るなあと思うこともあるし、日一日とオリンピックはせまっているのに、なにをもたもたしてやがるんだってやきもきしたりもするよ
開口一番、定評のある早口で一気にまくしたてた。が、心なしか、昔日のファイトはチョットおとろえた感じ。
やめたって、ぼくの能力がだめになったわけじゃあない。オリンピックを東京にもって来たのはぼくだし、施設、運営の具体的総路線をひいたのもぼく。大会開催の準備に、ぼくはからだをはり、金銭以外の非難は、どんなことでもひとりで引受ける覚悟で、とにかく、オリンピックは東京でやれるところまでひっぱって来たんだ
このあと、だれがやっても、オリンピックはなんとかやれるだろう。だれがやってもな。だが、いまの組織委員会の首脳部にも、事務当局最高幹部にも、オリンピックのことを知っている者はいない。もし、いたとしても、ローマ大会を見物席からのぞいたという程度じゃないか
せっかく東京でやるんだから、大きな夢をさかせることを考えなくては……変だと思うんだな。田畑色一掃なんていうやつもいる。オリンピックをやるのか、田畑色一掃なのか。なにぬかしやがるのかと思ってるんだ
田畑は事務総長は辞任したが、依然として組織委員である。その立場としての言葉が続く。
組織委員会に出席しても、いまは低調でつまらないな。やめてからはものもあまりいわなかったが、これからは、遠慮なしにどんどんしゃべったり、書いたりするよ。それでないとオリンピック屋やおべんちゃら利権屋に、オリンピックがくいものにされる心配だってあるんだ。これからは水泳といわず、陸上といわず、みな選手強化訓練も見てまわろうと思う……
田畑はこの記事が出た年の5月2日に東京五輪選手強化特別委員会の特別委員7人のうちの1人になっていた。
回顧本『人間 田畑政治』には岩田幸彰の思い出話も多数収録されているが、その岩田は、「裏・事務総長」との会合などは証言していない。田畑の強い慰留で組織委員会の渉外部長を続け、与謝野秀・新事務総長のもとで働いたのであり、与謝野ほか新しく委員会に加わった人たちは、岩田を「田畑派の残党」と警戒もしていたという。田畑が委員会に来て岩田に声をかけることはあったが、岩田が田畑の自宅を訪ねるということは、恐らくは控えていただろうと思う。
同書にはNHK運動部の記者だった遠藤俊七郎の、こんな回想がある。
ある日のこと、与謝野氏担当の記者が私に相談があると話しかけてきた。話の趣旨は、取材記者として与謝野氏を担当するのはかまわないが、個人的なつきあいのときには田畑さんのグループの集まりに参加させてほしいというものだった。信義として二君に仕えるのは許せなかったので、私は慰めるように説得して彼の申し出を断った。しかし、この記者の田畑さん好きは以前から定評があった。彼はまた水泳競技担当でもあった。私は一人でも親田畑がふえるのが嬉しかった。その後しばらくして私は彼を〝かくれ田畑派〟として仲間に加えた。田畑さんという人はそのような魅力の持ち主だった。
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