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『いだてん』田畑は東京五輪とどう関わったか

組織委員会の事務総長を辞任しても、「まーちゃん」はやっぱり……

前田浩次 朝日新聞 社史編修センター長

紙面で復活した「田畑節」

 「アサヒグラフ」の記事が出たすぐ後、1963年(昭和38)9月7日の朝日新聞朝刊に、田畑の署名記事「新興国競技大会への不参加に思う」が載った。

 インドネシアが計画している大会は、世界のスポーツ界を二分する動きを起こして国際オリンピック委員会を揺さぶろうという誤った判断によるものだと批判。日本体育協会は、日本が参加しないのは「オリンピック精神に反するスポーツ的非合法の大会だから参加が出来ないのだ、というきわめて簡明にして純粋なスポーツ的理由以外の何ものでもない」という真意をインドネシアにはっきり伝え、大会中止勧告をすべきだと結んでいる。

 ほぼ1年前のアジア競技大会でのことを考えると、この寄稿は論旨もそうだが、田畑に書かせた編集判断も、なかなかに興味深い。

 なお、この新興国競技大会は結局42カ国の選手が参加して11月に開かれ、日本からも体協の不参加方針とは別行動で参加した選手たちがいた。大会は翌年の東京五輪にも影響し、北朝鮮とインドネシアは開幕直前に選手団を引き揚げた。『いだてん』最終回で、松重豊演じる東京都知事・東龍太郎がインドネシア選手団を見送るシーンがあったが、事情はこういうことだった。

 次いで、同年12月23日の朝日新聞朝刊には、東京の次に大会が開かれるメキシコ・シティーのオリンピック委員会から招待されていた田畑が帰国したという記事があった。

いだてん拡大彫刻家・朝倉文夫
いだてん拡大朝倉文夫の自宅とアトリエを改装した「朝倉彫塑館」。朝倉の作品を見ることができる=東京都台東区谷中

 1964年(昭和39)4月24日の朝日新聞朝刊には、学芸面に田畑の寄稿「朝倉先生とオリンピック芸術展」が載った。同月18日に死去した彫刻家・朝倉文夫が、オリンピック憲章で実施が定められていた「芸術展示」の改革に貢献したことを紹介するものだった。

 1953年(昭和28)、朝倉は東京・谷中の自宅に田畑を呼び出し、きわめて熱心に、次のように説いたとういう。

 今のオリンピック芸術展は、三つの大きな誤りを犯しているというのである。一つは、芸術展をスポーツ部門の一種目のごとく取りあつかっていることである。芸術展はスポーツ部門の中にあるのではなく、これと併立するものであって、この二つでオリンピック大会はなり立っているのである。二はその対象を狭くスポーツに限っていることである。これは広くスポーツの理想とする健康美におくべきである。三は制作者をアマチュアに限っていることである。第一流の芸術家は専門家である。当然、広く専門家に解放すべきである。この三問題を解決するのでなければオリンピック芸術展は無意義に等しく、自然消滅の途をたどる外あるまい。是非、この解決に努力してくれというのである。

 その後も朝倉に働きかけられた田畑は、国際オリンピック委員会(IOC)と、特に美術愛好家であったブランデージ会長に、朝倉の意見を届けたという。

 そのためか、1960年のローマ大会の時のIOC総会で、今後、芸術展示は、はっきりスポーツ部門と独立したものとする、従ってその対象はスポーツに限らず、制作者もアマチュアに限定しないがその国の第一流品に限ると決議された。全く朝倉先生の主張がそのまま通ったのである。

 朝倉―田畑の働きかけだけで、「芸術展示」の質的転換が実現したのかどうか、本稿で検証できることではないが、田畑のオリンピックとの関わりの幅広いことをうかがわせるエピソードだ。なお、「芸術展示」は、1992年のバルセロナ大会から「文化プログラム」となった。

 1964年(昭和39)8月21日、ギリシャのオリンピアで聖火リレーの採火式が行われた。言葉は紹介されていないが、田畑が安川第五郎・東京五輪組織委員会会長らと共に出席した記事が22日朝刊に載っている。

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筆者

前田浩次

前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長

熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。

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