前田浩次(まえだ・こうじ) 朝日新聞 社史編修センター長
熊本県生まれ。1980年入社。クラシック音楽や論壇の担当記者、芸能紙面のデスクを経て、文化事業部門で音楽・舞台の企画にたずさわり、再び記者として文化部門で読書面担当とテレビ・ラジオ面の編集長役を務めたあと、2012年8月から現職。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
大河ドラマ主人公の歩みをたどる最終回。「記録」と「歴史」を考えた
NHK大河ドラマ『いだてん』は、主人公の最期までは描かなかった。
金栗四三は、1967年(昭和42)にストックホルム五輪から55年後の記念式典に参加し、競技場を走ってマラソンのゴールテープを切ったエピソードが紹介された。田畑政治は、水泳プールで選手たちを指導しているところで終わった。
田畑の五輪後の主な足跡は、前回紹介した「感無量」の寄稿の最後に自身が書いているように、水泳指導と、そして中国の五輪復帰に尽力したことだ。
今年2019年(令和元)8月31日、朝日新聞は田畑の故郷・浜松市との共催で「トークショー 水泳ニッポンを築いた男 田畑政治」を東京・イイノホールで開いた。
青木剛・日本水泳連盟会長が、田畑の水泳界での功績を戦前の足跡から紹介。そして東京五輪の不振から、田畑が「強化には屋内プールが必要だ」と、東京スイミングセンターの設立を働きかけたことが、今日の日本水泳に繫がっていると力説した。
センターは1968年(昭和43)6月に東京・駒込に誕生。2004年(平成16)のアテネ五輪で、北島康介と、このトークショーで青木と対談した中村礼子が同センターから出た初のメダリストとなる。
中国について田畑は、聖火リレーのコースとしても考えていたように、ずっと国際競技への復帰を願っていた。自らの従軍経験や、戦後のインドネシアやフィリピンで、日本兵への激しい憎悪を体験したことがベースにあっただろう。
1966年(昭和41)6~7月に田畑は日本スポーツ使節団の一員として中国を訪問した。アジア大会と新興国競技大会を一本化できないか、スポーツ交流を推進できないか、という目的だった。
その後1973年(昭和48)4月、田畑は日本オリンピック委員会の委員長となる。中国の国際舞台復帰実現を主な仕事にかかげ、その足がかりを築いて1977年(昭和52)に辞任した。
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