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100年のバウハウス、現代日本に溶け込む

近代の建築、美術、デザインに大きな影響を与えた学校

髙木毬子 同志社女子大学准教授、グラフィックデザイナー

日本への紹介は偶然の出会い

バウハウス拡大ワイマール・バウハウス大学本館の階段=2017年、Uwe Aranas / Shutterstock.com

 日本で初めてバウハウスが紹介されたのは1924年のことだった。

 1922年の11月、ドイツ中部の都市ワイマールにあったバウハウスを見学した建築家、石本喜久治(1894~1963)は、24年に刊行した編著書『建築譜』の中でグロピウスを紹介し、バウハウスを彼が創立した「学校」と記した。石本と共にバウハウスを訪れた美術評論家の仲田定之助(1888~1970)は、1925年に美術雑誌『みづゑ』で2度にわたり、詳細な紹介文を発表している。

 実は、石本と仲田のバウハウス訪問は偶然だった。

バウハウス拡大石本喜久治=1962年ごろ
 『建築譜』の中で石本は、グロピウスは当時の日本では「無名だった」と語っている。石本と仲田がバウハウスを訪問した動機は、マイスターの一人であったワシリー・カンディンスキーの存在だった。ベルリンのギャラリーで偶然顔を合わせた、この有名な画家に誘われ、ふたりは数カ月後、カンディンスキーのアトリエを見学する目的で、ワイマールに向かった。そこで、バウハウスをよく知ることになった。

 石本と仲田を通して日本でもバウハウスが知られるようになったことで、研修や留学でヨーロッパを訪れる日本人の芸術家・建築家が、次々とバウハウスを見学しようとワイマールへ、デッサウへ向かうようになった。彼らの多くは、自分の見たバウハウスについて感想をつづって発表し、日本でのバウハウスの認知度はさらに高まっていった。

 幕末、そして明治となった日本からは、多くの若い文化人が、新しい知識と刺激を得る為に、積極的に海外へ留学した。近代化を加速させる目的で、欧米から多くの分野で指導者や教師を招いた「お雇い外国人」と並行して、明治政府は、海外留学を強く支援した。ドイツに赴いた森鴎外、イギリスへ行った夏目漱石らが、最も有名な先駆者といえるだろう。1910年代に絵を学ぶためにフランスに渡った藤田嗣治を、ここに加えてもよいかもしれない。石本と仲田は1922年の11~12月にパリを訪れ、そこで藤田にも会っている。

 ドイツまで、海路でまる2カ月掛かったころの話だ。

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筆者

髙木毬子

髙木毬子(たかぎ・まりこ) 同志社女子大学准教授、グラフィックデザイナー

1975年ドイツ・デュッセルドルフ生まれ。2012年ドイツ・ブラウンシュヴァイク美術大学で博士号、2014年英国レディング大学で修士号を取得。10~16年香港バプティスト大学助教授、2017年4月より同志社女子大学学芸学部メディア創造学科准教授。専門はタイポグラフィとブックデザイン。他にデザイナー、著述家、研究者として活動。 ドイツエディトリアルブックデザイン財団賞 、ADCデザイン賞(アートディレクタークラブ・デザイン賞)、レッド・ドット・デザイン賞、iF デザイン賞を受賞。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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